■ここにあげているのは、「日本型の分裂病」の「第一期」の症状の一例です。
「日本型の分裂病」とは何のことでしょうか。仕事、学校に行く、社会的な公共の場面に参加する、といった「社会的な行動」は成立して、実際に行動がくりかえされているということが最大の特徴です。しかし、強迫観念の事例に見るように「狭い所が恐怖」「ガム、不潔なものが恐怖」というように「認識の内容」にバイアスが生じています。「認識」とは、何のことでしたでしょうか。
類似した対象のAとBとを比べる、という比較が「認識」することです。AとBとを比べて、形や性質、形状の様子などの違いを「認知する」ことです。
「認知」とは、人間の五官覚の「目」「手」「舌」「耳」「鼻」などのどれかの「知覚」で対象となるものごとと関わりをもつことです。そして「皮ふ感覚の触覚」で対象の「実在性」を記憶することをいいます。「実在性の記憶」とは、たとえば「視覚」の知覚による関係づけであるならば、「色」「光」「点」「線」「面」などが実在性を確定するでしょう。記憶は、これらのイメージを表象するのです。
「認識」とは、このような「知覚」の実在性にもとづいて、実在性の差異をそのものの特性として抽象的にとらえることをいいます。この抽象とは「記号性」といいかえても同じことです。Aが猫、Bが犬であるとしましょう。猫と犬の目で見た「認知の差異」とは何でしょうか。姿、大きさ、体の様子、動き方にそれぞれの特徴があります。決定的な違いは「猫はジャンプして高い所を移動する」「犬は、地面を猫よりも速く走る」というものでしょう。
「日本型の分裂病」の第一期の症状例「強迫観念」は、「公衆トイレ」「電車の吊り輪」「道路」といった社会的な空間性の場所や施設、設備といったものは、正常に認知しています。しかし「認識の内容」がバイアスに屈折しています。
「公衆トイレ」ならば、「清潔」と「不潔」を比べること、その差異を認知すること、および、その差異を実在性によって確かめること、さらに、その実証性を「自分の体験」か「他者の体験」によって関係づけて行動すること、などが欠如しています。「言葉の意味を確定していない」ということです。
「猫と犬の認知上の違いや差異」を認識することが欠如しています。
「差異」とは、ものごとのもつ性質や働き方の違いのことです。一部分の特徴ではなくて、そのものごとの中身にかかわることの違いをさす概念です。
そして、「猫と犬の差異」を単に言葉の上の説明だけで「分かる」というのではなくて、「猫」「犬」を実際に見るとか、記録や観察の記述で「差異の実体」を「認知」することが欠如しています。さらにここでの「認知」を、行動によって関係づけるとは、何のことでしょうか。例えば、「コーヒーカップ」と「どんぶり」の差異について考えてみます。
それぞれ形状、大きさ、重量、容量などに明らかな「差異」があります。人はその「差異」を認知するでしょう。その「差異」と行動によって関係づけるとは、「自分の体験」としてコーヒーカップ、どんぶりのそれぞれを差異の内容の「用途」に従って使ってみることをいいます。もしくは、他者の同じような行動を見たり、聞いたりして、疑似体験として関係づけることをいいます。
これは何をおこなっていることになるのか?というと「正当な行動が成り立つ」ということになります。「言葉」(言語)の次元でいうと、「猫」「犬」という動物の抽象概念が「猫」「犬」という「半抽象語」に還元され、さらに、行動の対象となる「具体的な名称」まで一義性をもって、即自的に還元される、と記述されます。
「強迫観念」の恐怖症の人にはこのような「認知」と「認識」の還元の仕方と過程が欠落しています。
「即自的」とは、「自分の思うとおりに行なうこと」という意味です。ものごとの「認知」はある、しかし還元過程の「認識」が欠落している、そして「即自的な行動や関わりだけがある」という病理です。
少し抽象的に難しい説明をおこなっています。なぜ、こういうまわりくどい説明をしているのかといいますと、分裂病は、強迫観念を例にあげると、「ものごとを分かるための言葉の意味のイメージが表象も表現もなされない」という病理であるからです。
それならば、「そのものごとの言葉とその意味を説明すれば解消するのか」という対策が考えられるでしょう。
しかし、そうはならないということをご説明しています。
このことを具体的にご説明して有効な対策を提示する、というのが今回の本ゼミのモチーフです。
「強迫観念」の症状をつくる言葉から考えてみます。
「怖い」という言葉です。
『岩波古語辞典』には次のように説明されています。
?「こわい」…「こはし」(形容詞。ク活用)。表面が堅(かた)くて弾力性に乏しいこと。堅くてゴツゴツしていることだ。
?大野晋は『日本語の年輪』(新潮文庫)で次のように説明します。
?「こわい」は、「おこわごはん(赤飯)」という言い方に残っている。「こわい」とは固くてつっぱっているというのがもとの意味だった。
「娘は、年もいかずコハクてございまして」(『竹取物語』)
かぐや姫が、帝(みかど)の御使に会うのを嫌った時の育ての親の言い訳の言葉が「コハイ」(こわい)だ。
「舌がコハイので、母の乳を飲むことができない」(『太平記』)
「コハキ物怪(もののけ)」(頑固でなかなか退散しない物怪のこと)、「ココロゴハシ」(『源氏物語』…性格が頑固で依怙地(いこじ)だ)、というのが「こわい」(怖い)の語源になる。ここから、「人間は、恐ろしいものに出会うと身体中の筋肉が硬直する」という意味に変化した。「室町時代」に、現代の「こわい」(怖い)に変化した。 |