「学習障害」とは、ひとくちにいうと「自分を変える」「自分の現実の環境を変える」ことができない脳の働き方のことです。
人間は、生まれてから死ぬまで、自分を変えるための学習が必要です。
仕事をして収入を得る、自分の生活をよりよく保つことは、自分が行動をして、活動をしていくことが可能にします。
仕事の内容も状況も目まぐるしく変わっています。変わる仕事の内容に合わせて自分を変えていく必要があります。
人間関係も、相手をよく分かって、分かったことを踏まえて話をしたり、関係を維持しなければなりません。
ここでも「自分が変わる」「相手を変える」ことが必要です。
「学習」とは、「自分を変える」ために知識を学び、技能を学び、態度や行動の仕方を修得することです。
「学習」というと、コンピューターのプログラミングを学ぶとか、英語の会話の能力をつけるなどというように、資格の取得や仕事に役立つ技能を身につけることだと思っている人は多いでしょう。
もちろんこういう理解でもいいのです。しかし、こういうふうに学習を狭くとらえると、「家族関係」や「子育て」「日々の仕事」は「よく分かっているので学習の必要はない」と思うでしょう。
「わたしは、妻、もしくは夫とは非常にうまくいっているので、ことさらに学習の必要を感じません」という人もいます。
「わたしには、恋愛とか結婚とかは無縁なので、学習の必要などはないと思っています」という人もいます。
このような人に、「では、あなたは、認知症(痴呆症)にならない自信はありますか?」と問うと、「わたしだけはだいじょうぶです」と答えるでしょう。
「デフレ不況がつづいていますが、あなたは今のままの収入のとおりにこれからも安定して、収入が減るという心配はありませんか?」と問うと「先のことは分からないけども、そういうことは全く心配していません」と答えるでしょう。
このように答える人にとっては、「2020年問題」(日本の財政破綻が浮上する問題)、「2025年問題」(日本人の要介護者(認知症の人)が800万人になる)などという問題は存在しません。
日本人の「学習障害」とは、広くいうと、「自分にとって日本の社会の中の問題は何も存在しない」ととらえることをいいます。
「自殺者が年間2万3千人も発生している」と報道されても、自分の身近な誰かが自殺したというのでなければすぐに記憶から消えてなくなります。
「要介護状態になると、今の日本の社会保障制度では、家族の誰かがつきっきりで世話をしなければならなくなる」という報道を目にしても、さしあたり自分の家族の問題でなければ、要介護問題はすぐに消えてなくなります。
大きく、広くいうとこれが日本人の「学習障害」です。
「見えない」「忘れる」「自分にとっては存在しない」、「遠い先のことは分からない」というのが、日本人に共通する「学習障害」です。
「年間自殺率」が「3万人」から「2万3千人」の高率でつづいている、ということは、ここに日本人の誰にも共通する「ものの考え方」(性格の傾向)があることを意味しています。
600万人から800万人の人が「要介護状態」に陥るということは、日本人の誰にも当てはまる思考の仕方とか行動の仕方があるはずです。このように考えると「要介護状態」は「明日は我が身」の問題になります。
「要介護状態」は「認知症」(痴呆症)が原因だということは誰でもよく知っています。「ものを忘れる」とか「自分が今どこにいるのかが分からなくなる」とか「朝、起きようとしても、無気力になって身体が動かなくなる」「まわりの人の目から見ても、明らかにおかしいことを話したり、おかしなことを行なう」というのが「認知症」(痴呆症)です。
日本にも、こういう認知症(痴呆症)について研究している機関はいくつもあります。しかし、これまでのところ、「これが原因です」「認知症(痴呆症)にならないための対策とは、こういうものです」という見解は発表されていません。
言われているのは、「認知症(痴呆症)になると、脳の中になんらかの物質が増える」ということです。そこで「こういう食べ物を食べるといい」といった対策が語られます。
これで、まちがいなく認知症(痴呆症)が防げるというのではなく、「いいと言われることが手軽なものならやってみよう」というものです。
この曖昧さ、適当に解釈するというのが、日本人に特有の「学習障害」です。
「学習障害」とは、「自分を変えられない」「自分の状況の環境を変えられない」(変わらない)ことをいいます。
「学ぼうとはしないこと」「学んでいるのに学べないこと」「学んでいることを否定したり、拒否すること」、それが「学習障害」です。
なぜ、日本人にはこういう「学習障害」が起こるのか?というと、日本語のしくみに理由があります。
日本語は、二つのカテゴリーで成り立っています。
「動詞」と「名詞」(抽象名詞)の二つのカテゴリーです。
「動詞」は、和語(ヤマトコトバ)がつくります。
「名詞」(抽象名詞)は「漢字・漢語」がつくります。
和語(ヤマトコトバ)は、日本の縄文時代につくられた言葉です。
ア、イ、ウ、エ、オの発声(発音)を文字(書字・ひらがな)にしています。
「漢字・漢語」は、外来語です。弥生時代に、大陸の渡来人が持ち込みました。
日本の国家(共同幻想)は、「漢字・漢語」の「名詞」(抽象名詞)でつくられています。
このことは、吉本隆明の『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)にくわしく説明されています。
日本語の特異性は、「漢字」「漢語」は「訓読み」と「音読み」の二つを並列していることにあります。
「漢字」「漢語」の読み方は「音読み」が「字義」「語義」を表します。
たとえば「花」という漢字は「はな」と訓読みで読みます。
辞書には、「植物の生殖器」の意味が書いてあるでしょう。
この「花」の「字義」「語義」は、「花弁」(カベン)「花葉」(カヨウ)、「花軸」(カジク)、「花梗」(カコウ花柄(カヘイ)と同じ)、「花被」(カヒ)のカテゴリーにあるものです。このように「漢語」による「名詞」とその説明を見て「花」(はな)(訓読み)の説明も正しく明らかになります。
しかし、「花」(はな)の訓読みだけが解釈すると「花」(はな)とは「上辺だけ」「見かけの立派なこと」という「解釈」が言いあらわされます。
「それで何の不都合がある?」と誰もが思うでしょう。
「花」のもともとの「字義」「語義」の「植物の生殖器とそのしくみ」という対象の説明が消えてしまうことになるのです。
これが「学習障害」の本質の問題です。
これは仕事、学校の勉強にあっては「5W1H」で言いあらわされる「いつ」「誰が」「何を」「なぜ」「どのように」といった「対象」の内容を不問にします。
すると「自分は変わらない」「現実と環境は変えようがない」という障害をつくり出します。
ひいては、日々の生活の中で「自分の行動の対象(目的)」も思い浮ばなくなります。
このような脳の働き方を中心にさまざまな「学習障害」の病理症状をつくり出しているのが、多くの日本人です。
「花」(はな)の例のように「花弁」「花葉」「花柄」と正しく「名詞」とその内容を学習するのが「学習障害」の対策です。