人は、なぜ「魔法の言葉」を信用するのか? |
まず、具体的な事例から始めます。最初にとりあげたいのは『運命が変わる未来を変える・検証、ツキを呼ぶ魔法の言葉』(ビジネス社・刊)です。
著者は二名です。五日市剛(工学博士)、矢山利彦(Y・H・C・矢山クリニック院長)です。要旨を整理してご紹介します。
- 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」がある。その言葉とは「ありがとう」、「感謝します」というものだ。
- 嫌なことがあったら「ありがとう」と言う。
- 良いことがあったら「感謝します」と言う。
- このように「使い分け」て、「使う」ことだ。
- さらに「いつも、ツイている」と言うことだ。
- すると、あらゆることが好転し、学業も仕事も恋愛も、金運も人間関係も、ツキっぱなしになる。
- 人は、感謝の気持ちをもつと「気」が出てくる。その結果、脳波が安定してリラックスした状態になる。
さらに呼吸が深くなり、力が出やすくなる。
- 知覚情報は、情報を調整する大脳辺縁系への入口にある「扁桃体」に伝えられる。「扁桃体」は、記憶情報を使いながら多刺激にたいしてどのように感情的に反応すべきかを決める。
このとき「不快」と「扁桃体」が判断したときは、自律神経の中枢の視床下部に刺激が伝わる。心拍数が上昇したり、血管が収縮したり、血糖が上昇するといった「交感神経」の緊張の反応が生じる。
アドレナリンやノルアドレナリンがこの動きをつかさどる。逆に、「快」と判断するときは、ドーパミン、エンドルフィン、セロトニンが分泌する。アドレナリン、ノルアドレナリンは「不快の神経ホルモン」である。
治療のメカニズムが働かない。
ドーパミンは「快の神経ホルモン」で「治癒のメカニズム」がよく働く。
「魔法の言葉」は「知覚情報」を「不快反応」から「快反応」の流れと変えるものだ。これはまだ仮説だが、現在の計測装置でも十分証明が可能だ。
- 「マルコによる福音書」に、こうある。
「イエスは言われた。『神を信じなさい。ハッキリ言っておく。この山に向かい、立ち上がれ、そして海に飛びこめと言い、自分の言ったとおりになると信じると、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じることだ。すると、そのとおりになる』」。
- 飛行機に乗っているときに、機内アナウンスで、Uターンするかもしれない、と言われた。そこで「○○空港に着きました。感謝します」と10回、言った。
すると、本当に○○空港に着陸できた。同じことは、「プラズマテレビが欲しい」という「想い」をイメージにして「感謝します」と言った女性にも起こった。ある別の女性は、キムタクのファンだった。そこで「キムタクに会えました。感謝します」と言った。しかし実現できなかった。そこでしっかりイメージして行動するとよいと教えたら「キムタク」に会えた。
- 「感謝の瞑想」をすすめている。
人生をふりかえって、感謝できる人や出来事に「ありがとうございました」と言いながら感謝する。嫌いな人、イヤなことにたいして「あれはあれでよかった」と肯定する。
両親にたいして「ありがとうございました」と過去の場面ごとで感謝する。すると、「嫌いな人」「嫌なこと」にも「感謝」できるようになる。
- 高いフロアに一歩、一歩上がっていくには二つの方法がある。
「自分を愛し、敵を愛する」、「魔法の言葉のありがとうと感謝しますを習慣化する」。
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日本人の多くの誰もがまぬがれない「良さそうなイメージ」が迫ってくる |
五日市剛(工学博士)が体験したか、書いたものを「矢山クリニック院長の矢山利彦」が紹介するという構成の仕方で書かれた本が、この『運命が変わる未来を変える・ツキを呼ぶ魔法の言葉』です。「魔法の言葉」とは、「ツイている、ツイていると、しょっちゅう言葉に出して言うこと」、「嫌なことがあった時は、すぐに、ありがとうと口に出して言うこと」、「良いことがあった時、また、自分が望むことを実現したい時は、そのことをイメージして、感謝しますと言葉に出して言う。さらにその想いのイメージのために行動すること」、などといったことです。
すると、どういう結果になるのかというと「交通事故をまぬがれた」「夫婦が円満になった」「ストレスがなくなった」(病気にならない)などの「運のいい、良い人生に変わった」ということが「検証」として紹介されています。
一見すると、「かくべつ悪いこと」は言われていないように見えます。「自分を否定する」とか「不安なイメージが思い浮んでいない状態」が「想定」されるので、安定した精神状態も得られるように見えます。
つまり、人間関係がうまくいっていない、収入も増えそうもない、仕事だって先行きはけっして明るいとは思えない、定年退職後の体力や心の病いについても心配だ、などの「不安定な状況」に立たされている時、誰もが、「不安なイメージ」や「支障感を予感するイメージとその言葉」にとらわれることはありえます。これらの「不安なイメージ」や「不安定なイメージをあらわす言葉」にとらわれるよりは、「ツイている、ツイている」としゃべったり、「嫌な場面や状況で、ありがとう」と言葉に出す方が、「心身は健全な状態に近いのではないか?」と考えられるように見えます。
また、「自分が欲しいもの」をイメージとして思い描いて、「感謝します、感謝します」と言い、それなりの「行動」をとって続けると、「いつか、どこかで本当に実現する可能性の方が大きいのではないか?」と「確率的」にも確からしく思えます。
五日市剛と矢山利彦が共著で書いているこの本は、こんなふうなモチーフの構成になっています。この本でのべられていることは、「肯定して、そのとおりに実行することには賛同できないにしても、しかし、徹底して否定したり、このような理由でおかしいと批判することは難しい」と多くの人が考えるのではないでしょうか。「不安なこと」や「先行きの見通しの不安定さ」のことを思うと、「明るく、楽観的な気持ちになれることは、いいことなのではないか?」と考える人もいるかもしれません。 |
常識的な判断の仕方は、「言葉」が「まじない」のように遊離していることに注目する |
では、どのようにとらえて、どのように考えればいいのか?についてご一緒に考えてみます。
「ツイている」にしろ「ありがとう」にせよ、これは、「言葉に出している現実の状況」が問題になるのです。「現実の状況」と「言葉」が一致していないのです。「ツイている」と言葉に出している状況は、必ずしも「幸運だ」とか「偶然に良いことが起こった」とばかりはいえない状況での「発語」です。
いわば、「恣意的に言いあらわした言葉」です。「恣意的に」とは、「正しい意味」を不問にしている、ということです。分かりやすく例をあげていうと、空を飛んでいる「カラス」を見ているのに、「あれは、空を飛ぶピンクのうさぎだ」と「言葉に出して言う」ことに等しいのです。こういう思考の仕方を「認知バイアス」といいます。目で見ているものをげんみつに認識していなくて、「これは、こうに違いない」と現実の対象の実体を歪めて取り違えることが「認知バイアス」です。「バイアス」とは「歪み」とか「片寄った分かり方」という意味です。このような「認知バイアス」を自然現象の中でおこなうときに「UFOを見た」とか「亡くなったお母さんが、台所に立っている姿を見た」などという「超能力」として語られます。
さらに、日常生活の中に拡大されれば「いつも、見張られている」とか「私の好きな人が道路を歩いている!!と見えてしまって、しょっちゅう後を追いかけて顔を確かめます。そのつど人違いだと分かってガッカリするんです」といった幻覚をともなう「分裂病」になるでしょう。つまり「ツイている」という言葉じたいも、これを無差別な状況でくりかえして言葉に出すことも「分裂病」の「脳の働き方」を生成していることに等しいのです。 |
嫌な場面で「ありがとう」と言うと、「実体」を無視した「認知バイアス」の脳の働き方になる |
同じことが「嫌な場面」では必ず「ありがとう」と言いなさい、というときの「ありがとう」や「ありがとうございます」にも共通しています。「ありがとう」という概念は、「価値ある物」や「価値ある情報」や「価値ある労力」「価値ある知的内容の言葉」を享受した状況での「謝意の表明」です。「私は、このように喜んでいます」という事実を伝える「価値意識」の表明です。
この表明が倒錯しているのが「五日市剛、矢山利彦」の行動です。「言葉を言うこと」も行動のカテゴリーに入ります。
「行動」が倒錯しているのです。
倒錯とは、現実の対象を「取り違えている」という意味です。女性からの相談の事例の中に、「私の恋人は、黒いストッキングを一年中つけていてほしいと要求します」というものがありました。一日中、毎日、冬も夏も、家の中ででも、です。
これが「倒錯」の例です。実体の女性と黒いストッキングとを取り違えて、「実体の価値」を「二義的におとしめる」という疎外をおこなうのが「倒錯」の病理です。
では、五日市剛のいう「感謝します」については、どう考えられるのでしょうか。
五日市は、「いいことがあれば、感謝しますと言いなさい」「願いごとがあるときも、その願いごとをリアルにイメージして、感謝しますと言うべし」(また、ただイメージして、感謝しますと言うだけではなく、行動にもつなげましょう)と言っています。
これも、「行動するのだから、願いごとの実現性に信ぴょう性がありそうだ」と、誰もが考えやすいのではないでしょうか。
これについては、次のような「前提」をあらかじめ考える必要があります。「願いごとの実現についての言葉、ないし、行動とはどうあるべきか?」という「概念思考」が、「前提」になります。「客観的に考えてみる」ということです。 |
カール・セーガンは『人はなぜエセ科学に騙されるのか』
(上下巻の中の下巻。新潮文庫)
の中の「風はほこりをたてる」の章の中で、次のようにのべています。 |
- 彼らは、足跡のくぼみをめんみつに調べた。
急いでいる動物の足跡は、前後にのびている。足をケガした動物は、悪い方の足をかばって体重をかけないので、そちらの足跡は薄くなる。
体重のある動物は、深くて、幅の広い足跡を残す。狩人(かりうど)たちの頭の中には、これらのことをはじき出す相関関数(そうかんかんすう)が入っているのだ。
- 一日の中で時間が過ぎてゆくうちに足跡もいくらかは侵食を受ける。
くぼみの壁は、ぼろぼろと崩れやすくなり、くぼみの底には、
風に吹き寄せられた砂が積もるだろう。木の葉や小枝、草が入り込むかもしれない。このような侵食は時間が経(た)つにつれて進む。
- 狩人たちは立ち止まって、しゃがみこみ、注意深く、動物の痕跡(こんせき)を調べる。
彼らが追ってきた足跡を別の動物の足跡が横切っている。この足跡をつけたのは、どんな動物だろうか?
動物は、何頭いたのか?年齢と性別は?傷ついたものはいるのか?移動する速度は?ここを通ったのは、いつなのか?他の狩人(かりうど)が追跡していないか?この獲物を捕えることはできるのか?できるとしたら、どれくらい時間がかかるのか?答えは、すぐにまとまった。
- 決定が下されると、彼らは追跡する足跡の上で、手をひらめかせる。
歯の間から風のような音を立てて走りはじめる。弓や毒矢という荷物を持っているにもかかわらず、マラソン選手なみのペースで何時間も走りつづけるのだ。
- 地面に残されたメッセージを読み違えることは、めったにない。
ヌーやオオカモシカやオカピは、彼らが予想したとおりの場所に、推測したとおりの頭数で見つかる。怪我(けが)などの様子も予想したとおりだ。狩りは成功を収める。彼らは肉をもってキャンプに戻る。そしてみんながご馳走(ちそう)にあずかるのだ。
- この情景は、カラハリ砂漠のクン族に典型的な狩りのようすを描いたものだ。彼らは、狩りがうまい。
一瞥(いちべつ)しただけで多くのことが分かる。文化人類学者のリチャード・リーはこうのべる。
「こうした追跡技術は、実施に役立つ科学である。惑星天文学も、星のクレーターを分析する時に本質的に同じ手法をつかっている。犯罪科学でも同様だ。
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前提の事例と比べるのが科学的な思考。すると「認識のバイアス」が見えてくる |
ここでのべられていることは、「科学的な思考」のモデルです。
「願いごと」を実現しようと思えば、このように「現実の事実」に即して観察して、そのしくみや成り立ちといったことを「イメージ」できて、さらにこの「イメージ」を「言葉」にして、その「言葉」のとおりに「行動すること」が必要です。
すると、五日市剛のいう「感謝します、感謝します」の言葉にリンケージされて思い浮べられる「願いごとのイメージ」は、カール・セーガンが描写してみせたような「実際の現実」にもとづいて想起(そうき)されたり、あるいは表象(ひょうしょう)されたものではありません。同じことは「願いごとのイメージ」には何らの「概念」もないということにお気づきでしょう。概念とは、社会の中の誰もが共通に学習して記憶している「社会性の言葉」のことです。
レポートを書いたり、報告書を書いたり、伝達や連絡のために書かれるときに用いられる「言葉」のことです。こういう「言葉」が無いのに、「行動せよ」と五日市剛はのべているのです。これは、「認識のバイアス」というものです。「認識のバイアス」とは、何でしょうか?
青い空にぽっかり浮んでいる白い雲を見て、「あれは、アイスクリームに似ているね」、「いやどう見ても、うさぎパンにしか見えないよ」、「でも、よく見るとパンダパンにしか見えないね」といったふうに、思い思いの「言葉」で「言いあらわす」ということです。このような「認識のバイアス」についての心理学の実験があります。
デンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した『ルビンの壷(つぼ)』というものです。みなさんもいつか、どこかでごらんになったことがおありでしょう。
四角いスペースの中の中央に白い地で「ツボの図」が描いてあります。「ツボ」の図に注目すると背景の「地」は「二人の人間の顔が向かい合っているように見える」というものです。これは「パターン認知」にしたがって、この認知を「記号性の言葉にする」という「右脳」と「左脳」の言語の記憶の相関性によってつくられる「脳の働き方のメカニズム」です。「願いごとのイメージ」を「空に浮ぶ白い雲」とすると、この「白い雲」を「Y経路のパターン認知」が認知します。「右脳系の海馬」で記憶します。もしくは、「右脳系の海馬」に記憶されている「パターン認知」が、「白い雲を見た」という視覚の経験の「オペラント条件づけ」によって、「アイスクリーム」「うさぎパン」「パンダパン」などの「パターンの記憶」を表象します。これを「記憶のソースモニタリング」ということは、すでによくご存知のとおりです。 |
「右脳系の記憶」は因果関係が混乱したイメージを表象する |
「右脳系の海馬」は、「いつ」「どこで」「何が」「どのように」といった因果関係は記憶しないので、つねに「因果の混乱」が起こり、「混乱したままの記憶のイメージ」が「右脳のブローカー言語野の3分の1のゾーン」に表象されるのです。五日市剛は、この右脳系の記憶は「因果の混乱を起こす」という性質を活用して「願いごとのイメージ」をくりかえし、いつでもどこまでも思い浮べよ、と指示しているのです。「白い雲を見て、何に見えるのか?」と問えば、それは、「白い雲」は上空の気流や温度によって次々に変化するので「認知バイアス」という言葉を知らなくても、「目の錯覚だね」「想像力が豊かだね」というように、「認知」の修正が可能です。しかし、五日市剛の言うように、「良いことがあればすぐに感謝しますと言いなさい」そして「願いごとがあれば、それがバストが大きくなってほしいことでも、お金が欲しいことでも、恋人が欲しいことでも、病気が治りたいことであっても、何でもいいから、なんどでも、くりかえし、感謝しますと言って、イメージしなさい」と条件づければ、そのイメージは「白い雲」のように形が変わってしまうことはありません。「認知バイアスのイメージ」(現実の対象を二・五次元の認知として知覚しての認知ではないという意味です)が、強力にリアルに思い浮べられることになるでしょう。このようなイメージは、「クローズ・アップのイメージ」です。小さく、距離をとったイメージならば、それは客観性という性質をもつので、「白い雲」が風に動かされて形を変えるように「認知」の修正が起こります。「クローズ・アップ」は、そのものの特徴や特性をより強調する性質をもっています。だから「記号性」へと抽象化されるのです。 |
「感謝します」とくりかえして「願いごと」をイメージすると、「クローズアップ」のイメージが触覚の知覚に変わって、「願いごと」が手に入ったかのように錯覚する |
また、「クローズ・アップ」は、触覚の認知に通じています。
「テーブルの上のリンゴ」をじっと見つめて、2分、3分、5分と「見る」ことをおこなうと、「リンゴが自分の身体にぴったりとくっついた感覚」が意識されるという実験でも確かめていただけます。「クローズ・アップした願いごとのイメージ」は、あたかも「自分の身体に同化した」かのようにも「認知」されるのです。
この「脳の働き方」の「右脳系の記憶のメカニズム」を利用して、あたかも、「願いごと」が実現したかのような「オペラント条件づけ」の「出来事」を「検証」と称して並べたててみせているのが五日市剛の「マジック・ショー」のようなテクニックのからくりです。
「夫婦円満になりました」「子宝に恵まれました」「胸が大きくなりました」「キムタクに会えました」「交通トラブルにならずにすみました」などの「読者の喜びの声」の「手紙」と称した紹介が「触覚化したクローズ・アップのイメージ」と「オペラント条件づけ」によってむすびつけられた「現実の出来事」の「願いごとの実現」です。 |
「認知バイアス」のイメージは「認識のバイアスの言葉」をつくり、さらに「行動」も招き寄せる |
問題は、「認知バイアス」としてつくられた「イメージ」は、それ自体が「クローズアップ」というものの性質によって「記号性へと抽象化される」というところにあります。この「記号性としての言葉」とは、「願いごとのために行動せよ」という時の「記号としての言葉」になるのです。しかし、この「記号としての言葉」は、その「願いごと」が実在する現実の対象とは何のかかわりもありません。そこで「願いごとの実現の行動」として「ジョギングをする」とか、「朝早く起きる」とか「そうじをする」とか「にこにこと笑顔になる」ということが任意に選択されます。それは、「バーナム効果」として「誰が考えてもよいと思ってしまう効果のありそうな行動」が選択されるので、実行する人に不自然さを感じさせないのです。「西の方を向いてノリ巻きを食べれば良いことがある」といった行動と同じです。「ノリ巻き」はおいしいので、「西を向いて食べる」ということをやってもやらなくても「バーナム効果」のイメージを表象させるでしょう。「西を向いてノリ巻きを食べる」ことの「おいしい」という価値観と「良いことがある」という「バーナム効果のイメージ」が並立します。「良いこと」とか「願いごと」のクローズ・アップのイメージが、より「触覚化」の度合いを強化して「長期記憶」となるのです。これは、お分りのとおり「右脳系の海馬」から「右脳系の扁桃核」そして、「右脳系の中隔核」にも記憶されるのです。
まとめをいいますと、「認知バイアス」のイメージによってつくられた「記号性の言葉」のことを「認識のバイアス」といいます。「認知バイアス」としてイメージされた「願いごとのこと」や「良いこと」の認知のパターンとも一致していないという認識の歪みをもつ言葉だからです。また、「願いごと」や「良いこと」の事実の実現のための「実践的な行動」とも一致しない歪みをつくっていることはすでにお話しているとおりです。
「願いごとの実現」のために「朝早起きをする」「毎日、ジョギングをする」「そうじをする」「西とか東を向いてノリ巻きを食べる」、などの「行動」が「認識のバイアス」の「言葉」と「行動」です。 |
分裂病の脳の働き方のメカニズム」が語る「エセ科学」以前の「脳の働きの説明」とはこういうものです |
では、「認知バイアス」と「認識のバイアス」にしたがった「脳の働き方」をつづけるとどうなるのでしょうか。常識的に考えれば、分裂病としての「離人症」のまま「生活」をしたり「仕事」をおこなうことになるでしょう。
「離人症」とは、現実のものごとを身体の目は見ているのに、心の眼は見ていない、といった「脳の働き」と「生理的身体の活動」が乖離(かいり)してしまうことをいいます。テレビの画面を見ているのに、「しかし、画面の内容が分からない。画面に出てくる人物が話している言葉がよく聞きとれない」といった事例が「離人症」の病的な特質をよくあらわします。それじたいは「分裂病である」とは言い切れませんが、しかし、「分裂病としての脳の働き方」のメカニズムをおこなっていることは確かです。この「分裂病としての脳の働き方」を五日市剛はこんなふうにのべています。
「知覚情報は、情報を調整する大脳辺縁系の入口にあたる扁桃体」に伝えられる。扁桃体は、記憶情報を使いながら、各刺激にたいして、どのように感情的に反応すべきか決めます」
■「見てきたようなウソを話す」という言い方がありますが、まさしくそれがこの説明にあたります。
「知覚情報」といっても「首から下の下向システム」と「首から上の上向システム」の二つがあります。まず、その区別がありません。すると「知覚情報」とは「内臓系のことか?」「手足の皮ふ感覚のことか?」それとも「五官覚」(目、耳、鼻、舌など)のことか?の区別がないのです。また、その知覚情報のどれであっても「脳幹」のA6神経かA10神経に伝わり、ここから「左脳系」へ進むのか、それとも「右脳系」へ進むのかは、「扁桃体」ではなくて、「視床」(ししょう)に伝えられるのです。「扁桃体」は、大脳辺縁系の入口にあるのではなくて、「海馬」にくっついています。
「左脳系の海馬の扁桃核」「右脳系の海馬の扁桃核」と分けられています。そして、扁桃核は、「好き」「嫌い」「敵」「味方」などの感情的な価値を決定したり、その対象についての「記憶」をおこなうのです。このことは、書店に売っているどんな「脳のハードウェアについて説明する書物」にも書いてあります。いわば、脳のハードウェアの記述の世界的な常識です。このような「社会的な常識」(定説や定義のことです)を「認識のバイアス」の歪みのとおりに言葉に出して語る、というのが「分裂病」の特性です。「人の目が気になるんですよね」から始まって、「気になって怖いんですよ」、「怖いといえば、いつも、電車の中で見張られているんです」、「この前なんかは、部屋の中に勝手に入って来られて、テレビの中に入ってしまわれましてね」「それで、テレビを見ていると、それらしい人がじっと私を見るんです」というように、「言葉」の一つ一つの「認識バイアス」が「意味の脈絡」にまで拡大されて、どこまでも現実の中に広げられて拡張されるという「言葉」のことを「分裂病」というのです。五日市剛の「脳についての説明」は、単なる無知とか、虚偽ではありません。「分裂病の病い」がつくり出している「脳のハードウェアとソフトウェアのシステム」の説明です。ここはたいへん重要なところなのです。「脳のメカニズム」の説明についての「分裂病の言葉」がつくり出している典型は、東北大学の教授・川島隆太の「脳トレによって、前頭葉が鍛えられる」といった説明が「分裂病をつくる認識のバイアス」です。川島隆太は「前頭葉」が発達して「コミュニケーションの力がつく」「創造性がのびる」「積極性がのびる」など『脳を鍛える大人のドリル』(くもん出版)でのべています。 |
分裂病の「脳の働き方のメカニズム」は「母親の冷たい表情」の記憶が生成する |
問題の核心は、なぜ、このような「分裂病の脳の働き方のメカニズム」がつくり出されるのか?にあります。
もともとは、「乳児期」に分裂病の病気の起源があります。五官覚の「目」「耳」「鼻」「舌」「手」などの知覚が、現実の対象とかかわりをもつときに、「視覚のイメージ」から「聴覚の記号性」へと分化してすすむ時、「母親」が「指」をさして「これはなあに?」「これは、うさぎパンっていうのよ」と「共同指示」を示したか、どうかが分岐点になります。このとき「母親」が「喜びの表情」を見せると「うさぎパン」の「意味」のメタファーとして「乳児」に記憶されます。このときの「乳児」の五官覚の知覚のイメージは「左脳系の海馬」で記憶されます。
「うさぎパンのパターン認知」は、「右脳系の海馬」で記憶されるのです。「母親の喜びの表情」が「記号化」されて、やがて「共同性の記号」の「概念」へと記憶が高次化します。
しかし、「母親」が「冷たい目」を見せるとか「子どもに怖い目を向ける」などということがあると、「メタファーとしての意味のイメージ」は記憶されないのです。すると、「乳児」にも「喜び」が記憶されません。すると、「乳児」は「クローズアップ」をそのまま深化させます。「触覚の認知」まで深化させるのです。このような「乳児」は何をもって「喜び」(気持ちの安心)とするのか?というと、「バスタオル」とか「ハンカチ」を口に入れて舌でなめて、触覚の認知による「同化、一体」(吸収や摂取のことです)によって「安心をイメージする」のです。このような「乳児期」の「右脳系の記憶」を抱えている人が成長するにしたがって「おしゃぶりハンカチ」「おしゃぶりバスタオル」の代わりに、「願いごとのイメージ」をつくり「認知バイアス」のクローズアップのイメージを「触覚化」します。そして、「バーナム効果」を思いつきます。「認識のバイアス」の行動の「朝早起き」だの「西に向かってノリ巻きを食べる」とか、「嫌なことが起こるとありがとうと言う」ということをおこなうのです。 |