「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」からしか解明できない「殺人事件」が多発しています |
平成20年6月8日、日よう日の午後12時すぎに、東京・秋葉原の「歩行者天国」で「男女7人が殺害される」という「通り魔事件」が起こりました。容疑者は、加藤智大(ともひろ)、25歳の独身男性でした。加藤智大容疑者は、前日まで「人材派遣会社」の「日研総業」(東京・大田区)に採用されていて、「自動車部品会社」に派遣されていました。
何が動機で、このような事件を起こしたのか?については、「携帯電話向けのインターネットの掲示板」に加藤智大容疑者自身が書き込んだと見られる「スレッド」によって説明されている、と報道されています。
リライトしてご紹介すると次のとおりです。
- 5月25日
「男子大学生が自殺した。この学生を、女子大生が発見した。訪ねてくる女性がいたのに、なぜ、自殺したのか?」
- 「目の前をカップルの男女がいちゃついて歩いている。見ると不愉快になる」
- 5月27日
「ソープに行った。つまらなかった。二度と行きたくない」
「セックスをすると10の効能というものがあるそうだ。不細工な自分には、一生無縁な話だ」
- 「不細工な君たちへ。
中学生をがんばればいい。中学生の時、不細工でも、がんばれば女友達はできる。
その後の人生に大きな差が出るぞ」
- 5月29日
「私は、愛が欲しいのでも、愛してほしいのでもない。だれかを愛したいのだ。愛しているという証(あかし)が欲しいだけだ」
「ニートにだって彼女はいる。自分はまじめに仕事をしてきた。だが、彼女はできなかったよ」
- 5月30日
「これから自分は、どう生きていけばいいのか?夢も希望もない。
力は尽き果てた。ことあるごとに非難されるし、ののしられている。
さみしい老後になるのだろう。ひとりぼっち。部屋のすみっこでヒザを抱えて、死んだも同然で生きていくにちがいない」
- 5月30日
「幸せって何だろうね」
「この世で、彼女がいないのは、まちがいなく自分一人だけだ」
- 6月1日
「女に生まれたかったよ。女ってだけでちやほやされるから」
- 6月2日
「悩みがあるのは不幸ではない。
悩みを一人で抱えないといけないことが不幸なんだよ」
「自分は、全人類の罪を背負っているのかもしれない。おれが、おまえらみんなの罪を背負っているんだよ。だから、おまえらは幸せなんじゃないか」
「みんな、幸せそうでいいよねー」
「幸せ者は、死んでもらおう」
「みんな殺してしまうよ」
- 6月4日
「土浦で、何人か刺した奴のことを思い出したよ」
- 6月5日
「人と関わりすぎると、怨恨で殺す。孤独だと無差別に殺す」
「誰でもよかった、ということらしい。
なんか、分かる気するなあ」
- 6月6日
「やりたいこと?殺人です。
夢?…そりゃ、ワイドショー独占です」
「性格とか、考え方が変わったって顔は変わらない」
「おれが何か事件を起こす。すると、みんな『まさか?あいつが?』って言うんだろー。『いや、いつかやるって思っていたよ』と言う奴がいたら、そいつがいちばんの理解者なのだ」
「彼女がいないこと。それが全ての元凶です」
- 6月7日
「死ぬ気になれば何でもできますよ」(投稿者のアドバイスのコメント)……「そりゃあなた、死ぬ気にならなくても、何でもできちゃう人のセリフですよ」
- 6月8日
「こうなったら、俳優になるぞ」
「そうだ、イケメン俳優になるぞ」
「サカナ君になりたい」
(平成20年6月12日『夕刊フジ』よりリライト、再構成)
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日本の「識者」は、この事件をどう理解しているか |
取材ののちの報道によれば、加藤智大容疑者は、自らを「携帯依存症」と呼び、5月中旬以降だけで約3000回にのぼる書き込みをおこなっているということです
臨床心理士・矢幡洋の話。
「この事件は、加藤容疑者の自己愛が強すぎることが原因だ。ふつう、自己愛の強い男性は、次々と女性を誘惑する。だが、加藤容疑者は、自分の容姿への不満から、女性に積極的に接する機会をつかめなかった。だから殻(から)に閉じこもった。そのために女性にたいしての執着がつよくなった。
自分の容姿や社会の不平等にたいしての憎しみをふくらませた。
どのように自己愛をつよくしたのかというと、親が過剰にチヤホヤすると自分は特別だ、との意識が強くなって、自己愛が強くなる。加藤容疑者は、掲示板で、親は、まわりに自慢したいから、完ぺきに仕上げた、おれが書いた作文とかは、ぜんぶ親の検閲(けんえつ)が入った、と書いている」
作家(ノンフィクション)、藤井誠二の話。
「顔が良くて、背が高い、というひと昔前の『3高』のような格差が固定化しているような印象を受ける。今の若者は、容姿に自信がなければ話術を磨こうなどのような強度があるが、それがなく、なぜか昔に戻ったままだ。
何でもやればできる、という幻想を植え込まれている。地方から出てきて、なんでもないただの普通の人になってしまったことに耐えられない地方の『できる子』に見られる挫折感もある。ストレス発散の手段がいきなり無差別殺人にむすびついている。幼児的な全能感が、大人になっても矯正されていない。幼稚なまま25歳になった。
彼にとっての社会は何だったのだろうか?何もしてくれない社会への逆恨みをもつコンプレックスが事件を起こしたのか?」 |
「誰でもいいから殺す」という言葉をつくる脳の働き方が日本人に共通しています |
■この事件は、「誰でもいいから人を殺したいと思い、そのとおりに実行した」という「言葉」と「行動」に注目すべきです。
加藤智大容疑者だけでなく、「誰でもいいから人を殺害する」という殺人事件が、今年になってすでに数件起こっていることは、どなたもよくご存知のとおりです。「誰でもいい」から「殺す」という言葉と行動が共通しています。
この「誰でもいい。誰という特定をせず、そこにいる人間と関わって殺害する」という病理が今の日本人の誰にでも共通しています。
「誰でもいい」とは、何のことでしょうか。現実に実在する特定の人物のことではない、ということです。
なぜ、このような言葉が言いあらわされるのでしょうか?
これは、「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」というものが理解できなければ、この言葉が何を意味するものかは、全く分かりません。
すでにみなさまは、脳は「言葉」と「行動」を生成する、という「脳のソフトウェア」のメカニズムについてよくお分りいただいています。
脳は、「記憶」して、この「記憶」を「表象」(ひょうしょう)するか、「表現する」という働きをおこなっています。
「表象」(ひょうしょう)とは、「右脳系のブローカー言語野」に思い浮ぶ「視覚的なイメージ」のことをいいます。なぜ、「表象」(ひょうしょう)という言い方をするのかといいますと、脳は、自律神経の恒常性(ホメオスタシス)という生命活動によって働くからです。「右脳系」は、目、耳、舌、手(指)、鼻、身体の皮ふなど「五官覚」の知覚の記憶をおこなう中枢神経群によって働いている領域です。人間の手足とか、内臓、生殖機能などは、「右脳系」につながっています。
「右脳系」に「知覚した認知」を送り込むのは、「大脳辺縁系」にある『視床』(ししょう)です。
『視床』(ししょう)は、一つの大きな中枢神経ですが、二つに機能が分かれています。「右脳系に送るか?それとも左脳系に送るか?」というように弁別(べんべつ)するのです。
弁別(べんべつ)とは、「見分けること」、「区別すること」という意味です。「識別する」ともいいます。一般的には、「常識で見分けられる良い、悪い、正しい、間違っている、などをわきまえること」というように用いられます。
では、人間が、あるものごとを見たり聞いたりした時に、このときの「知覚の認知」を「左脳系」かそれとも「右脳系」かにふるい分けるものは何でしょうか?それが、じつは、「乳児期」からの「母親との関係」による「言葉」と「行動」の記憶のソフトウェアのメカニズムに拠るのです。 |
加藤智大容疑者の「脳の働き方」の、日本人の誰にも共通する特性とはこういうものです |
お話を「秋葉原通り魔事件」に戻します。
加藤智大(25歳)容疑者の携帯電話によるインターネットの「掲示板」への書き込みをご紹介しました。この書き込みの文章で「誰でもいいから殺害する」という言葉と共通する文章(言葉)は、どれでしょうか。
任意にピックアップしてみると、次のようなものが取り上げられます。
- 「目の前をカップルがいちゃついて歩いている。不愉快だ」
- 「不細工な私は、一生、セックスで得られる10の効能とは無縁だ」
ここでは、何が言われているのでしょうか。
・の事例では、偶然に見た若い男女のカップルについての「理解」です。理解の内容は、「不愉快だ」というものです。加藤容疑者は、「目の前を歩く男女」が、幸せであることをことさらに強調して、恋人なり、親密な友人なりの女性がいない自分をバカにしたり、価値の低い男だと軽んじている、というように価値判断しています。
これは、明らかに「見た目」(視覚の認知)を歪めた理解であることは、冷静に考えれば、誰にでも分かることです。「認知」とは、「対象となるものが、げんに、そこにあることを了解する」という分かり方のことをいいます。「認知」は、脳の働き方のソフトウェアのメカニズムを分かるときの重要な言葉です。「認知」は、「右脳系の大脳辺縁系の中枢神経」に記憶されたり、もしくは、『記憶のソース・モニタリング』によって「右脳ブローカー言語野」に記憶のイメージを表象(ひょうしょう)します。
加藤容疑者は、「目の前を歩くカップル」を見て(目で見て「認知」して)、「歩いている男女のカップル」の「現実」とは無関係な「認識」を成立させています。「いちゃついて歩いている」「不愉快だ」「嫌いな夏がやってくる」などの言葉が「認識」という記憶の表現です。「いちゃついている」かどうかは、当の「カップルの男女」にしか分かりません。そこには、個々人の事情というものがあります。「昨日までケンカしていて、仲直りのために必死に努力している」かもしれません。
「男女のいずれかが、心身に不調をかかえていて、その回復のために散歩している」かもしれません。ひょっとして、「別れ話」がもち上がっていて、お別れ会のために二人だけの記念の食事を摂った帰り道、というシチュエーションだってありうるのです。つまり、現実のものごとは、「見た目のとおりではない」ということです。「見た目のとおりではない」という「認知」をふまえて、ここからいろいろに角度、方向、距離を変えて「観察」して、ここで得られた「認知」が、当の「カップル」についての『意味』です。ある日、ある場所、ある局面で見た「カップル」という『概念』(がいねん)の『意味』です。
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「認知バイアス」(歪み、片寄り)が生成する「認識のバイアス」が病気の言葉です |
加藤容疑者の「不愉快だ」「夏は、薄着のカップルがより密着して見えるのでとても嫌いな季節だ」という「カップル」への「認知」は、「認知バイアス」といいます。「認知バイアス」とは、何でしたでしょうか?すでにご紹介している心理学の実験例があります。
「カニッツァの三角形」です。もういちど思い出してみましょう。
「三角形」がある、と想像してください。ただ、この「三角形」は、「頂点」の角(かど)が、ほんの少しだけ開いています。線がつながっていません。すると、これは正確な三角形ではありません。しいていえば、未完成の「三角形」です。このような「三角形」の図が「カニッツァの三角形」です。「認知バイアス」ということを証明するための実験図です。この「カニッツァの三角形」を描いて、みなさまが、「これは実験です」と断って善意の第三者に提示して「このとおりに描いてください」と求めたと仮定すると、確率的には、半分の「5人の人」が「認知バイアス」によって、「三角形である」と認知して、「正確な三角形の図」を描くはずです。残りの半分の5人の人が、「認知バイアス」に陥らずに、「不正確な三角形の図」を描くでしょう。この後者の人は、「上下、左右」「近く、遠く」などのいくつもの位置関係から「認知した」のです。
このようにいくつもの位置から「認知すること」を『意味』のための「認知」といいます。加藤容疑者は「カニッツァの認知バイアスの三角形」を目で見て、「これは正三角形だ」と認知しました。バイアスとして了解したのです。「バイアス」とは、歪み、偏向、片寄り、といった意味です。
「認知バイアス」は、必然的に「認識のバイアス」を表現させます。
「不愉快だ」「肌を露出させている女性とぴったり密着している男性のカップルが、くる日もくる日も目の前を歩いていく嫌な季節の夏だ」などという言葉は、「認知バイアス」にもとづく『意味』です。「カップル」という言葉は、『概念』(がいねん)です。そのもともとの語の一義性をもつ正しい意味は、単に、「男女が二人で共に行動していること」というものです。このことから分かるように『概念』(がいねん)は、必ず、『意味』をともなっています。間違った「認知」による『概念』(がいねん)も、やっぱり「意味」を「右脳」に「表象」(ひょうしょう)させます。これが「脳の働き方のメカニズム」なのです。加藤容疑者は、「不愉快だ」「嫌な夏だ」というように、歪んでしまって間違った『意味』を表象(ひょうしょう)させています。
この「不愉快だ」「嫌な季節の夏がくる」という『意味』(イメージ)を言葉にしたとき、「認識バイアス」という「左脳系の海馬」で記憶されている「言葉」が表現されています。
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言葉の「意味」を記憶できない脳の働き方が「現実」と仲良くなれないのです |
「自分は不細工だ。イケメンじゃない。彼女はできない。カメでもいいし、サカナ君になりたい」という掲示板の書き込みも「認知バイアス」による「認識バイアス」の表現です。
「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」から見ると、「男性の顔」が「不細工だから」という理由と根拠で、「彼女になりません」と言う女性はいないでしょう。加藤容疑者もこのことは、よく分かっています。
「不細工な男性のみなさん。中学生の時期をがんばってください。中学生の時は、男の子は不細工でも、勉強の成績が優秀で、スポーツも万能ならば、彼女はできます。彼女ができなくても女友達はできるでしょう。女友達が全く居ないのと、一人でもいるのとでは、その後の人生に大きな差ができると思います」(5月28日の掲示板への書き込みの文章)。
女性と男性が、お互いを心や精神を通わせ合うための「特化した関係」として成り立たせるためには、「橋渡し」となる「つなぎ」になるものが必要である、ということが語られています。これは、正しい「認知」であり、「認識」です。もちろん、「顔がイケメンだから好まれる」という男性もいて、「好む」女性もいるでしょう。この場合でも、関係が成り立って、一ヵ月、三ヵ月、半年、一年、二年と「関係」が持続する状況を想定してみると、「イケメン」だけでは、その関係は保たれ難いことに気づかされるでしょう。ここでは「彼女」という『概念』(がいねん)が問題になるのです。「彼女」とは、「性的な対象として特化された女性」のことです。
〔彼女〕(かのじょ)
- 話し相手、話し手以外の女をさす。
欧文の訳語として出来た。初めは、「彼女」と書いて、「かのおんな」「あのひと」などと読んだ。
- また、ある男性の恋人の意で名詞的に使うことがある。「君の彼女はすばらしい女性だね」等。
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人間は、「言葉」の「意味」によって「行動」します。「意味」が歪めば「行動」が病気になる |
「彼女」(かのじょ)に対して成立する『概念』(がいねん)が「彼」(かれ)です。男性、女性ともに「特化し合った関係」ということが「認知」の内容です。
「女の子のお世辞を聞きながら高くて、まずい酒を飲むのがキャバクラですよね。何が楽しいのか、教えていただきたいです」
「先日、ソープに行きました。先輩に連れて行かれました。二度と行きたくありません」(5月27日の掲示板の書き込みの文章より)
「絵と恋愛する方法を調べてみました。
絵とは、キャラのことです。そのキャラのために、どれだけお金を使ったか?が愛情の証(あかし)らしい」(6月1日の掲示板の書き込みの文章より)
ここでは、「イケメンだけでは、彼女はできない」という「認識」が語られています。女性にとっても、男性にとっても、「言葉で話されるパターン」と「行動であらわされるパターン」が「橋渡し」となって交流されて、この二つのパターンが「認知され」、「認識」として記憶されるときが「彼」、「彼女」の関係の『意味』(すなわち「行動」の価値)になる、ということが語られていることになるのです。
「ソープには二度と行きたくない」とは、「特化された関係」のための「価値」を了解することができなかった、ということです。
「キャラとの恋愛は、お金が愛情の証(あかし)だ」というのは、価値を生むための「橋渡し」となる「言葉で話されるパターン」と「行動であらわされるパターン」の交流が無い、ということについての不満がのべられています。
この不満は、正当な理解です。
ここでは、『彼女』という言葉(『概念』(がいねん)のこと)はあっても、この言葉の『意味』が定まっていないことが分析的に見てとれます。『彼』『彼女』とは、一体、何をする関係なのか?そこでは、何がおこなわれるものなのか?が全く分からないというのが『意味』が定まっていないということです。 |
乳児の時の「母親との関係」が「病気の脳の働き方」を生成します |
『概念』(がいねん)の『意味』(つまり、言葉には『意味』があるというときの『意味』のことです)とは、「脳の働き方」の起源は、「乳児」(0歳9ヵ月から1歳半の乳児)に求めて観察してみると、「母親の共同指示と母親の喜びの表情」にあります。これは「メタファー」という『メタ言語』で理解されるものです。
「母親の共同指示と母親の喜びの表情」が、『概念』(がいねん)の『意味』として「左脳系の海馬」に記憶されるのです。この「母親の共同指示と母親の喜びの表情」は、「右脳系のブローカー言語野の3分の2のゾーン」に表象(ひょうしょう)されて、「ドーパミン」を分泌します。脳の「快感報酬」のメカニズムにもとづく「快感ホルモンのドーパミン」が分泌されるというしくみになっています。
「母親の共同指示と母親の喜びの表情」という『意味』の「メタファー」は、「彼女」という言葉(概念・がいねん)については、「性の関係は3分の1」「性は、心的な関係の3分の2を媒介する」という内容を『意味』として認知させます。そして「言葉のパターン」と「行動のパターン」を「認識する」というように表現されます。さらに、この「認知」と「認識」は、男性ではなくて、女性がおこなうのである、という「認知」と「認識」が加わります。これが『彼女』という言葉(概念・がいねん)による現実の女性に近づいていくという「行動」の中に出てくる「角度」「距離」「方向」の内容です。
「角度」とは、「仕事」なら「仕事」について語るときの具体的な状況のことであるでしょう。
「距離」とは、「仕事」なら「仕事」に取り組むときの工夫や努力、改善や成果、実績のことかもしれません。
「方向」とは「計画性」や「予定の立て方」「将来の収入の見通し」や「知的実力の将来性」のことかもしれません。
女性は、こういう「言葉のパターン」と「行動のパターン」を認知して、自分の「右脳」と「左脳」のそれぞれの「海馬」に記憶してもよいと了解するとき、「性の関係」という「認識」の仕方を了解します。これが「彼」と「彼女」という『概念』(がいねん)の万人に共通する普遍的な『意味』です。 |
「意味」が分からない人は、ものごとを正面から、「静止したイメージ」として思い浮べています |
加藤容疑者の考えている「彼女」には、このような『意味』はありません。
正しい『意味』が無いとは、「彼女」という言葉は、「記号としての言葉」として記憶されているということです。
「記号としての言葉」とは、何のことでしょうか。一義性をもつ『意味』の言葉が記憶されていない、ということです。これは、「彼女」なる女性を想定したとき、「真正面」に置いて、固定的にじっと見る、ということです。すると、どういう女性を想定しても、「クローズ・アップ」で大きく拡大された「イメージ」として認知されることになるのです。
たびたび例としてご紹介していますが、「テーブルの上にあるリンゴ」をじっと見る、という実験にむすびつけてご理解なさってください。
1分、2分、3分、そして5分、というように「じっと見詰めつづける」と脳のソフトウェアのメカニズムは、「クローズアップ」の視覚のイメージを「右脳のウェルニッケ言語野」の「触覚の認知」の了解に変えるのです。
つまり、「彼女」「彼女」「彼女」とくりかえし、なんども反復させると固定化した視覚のイメージが「自分の生理的身体」にぴったりとくっついて密着した『了解』に変わるのです。
「彼女」という「言葉」が「記号としての言葉」に変わるとは、「行動の『意味』」として実在する現実の「女性」から離れて、しだいに遠ざかり、自分自身が浮き上がるということを意味しています。このように実体となる現実からどこまでも浮上して、宙吊り状態になることを「乖離」(かいり)といいます。心理療法の分野では「解離」(かいり)という表現の仕方をしています。自分という人間の人格が「魂をとられた人間」のようにふらふらとさまよって歩いているという「ゾンビー」のような人間がイメージされています。
これは、臨床的に見ると「離人症」(りじんしょう)という分裂病の症状を現象としてあらわすので、このような観察からとらえられたことに由来していると思われます。 |
言葉を「記号として憶える」と「行動」は、対象に同化し、一体化を求める動き方になります |
「彼女がいない」「一生、彼女はできない」「この世で彼女がいないのは、おれだけだ」「生涯孤独」「いつも悪いのは、おれだけだ」というようにイメージを表象(ひょうしょう)させつづけると、「彼女」という言葉が「記号化される」ということをご説明しています。
「記号化されたコトバ」もまた、「触覚の認知」に変わります。「言葉」は、「視覚」か「聴覚」のいずれかで表現されます。この「視覚」と「聴覚」は、「右脳・ウェルニッケ言語野」の触覚の認知の記憶で「記憶」を成り立たせているからです。
加藤容疑者は、「言葉」というものを「自分の生理的身体」の「皮ふ感覚」の知覚の「触覚の認知」でしか記憶できない、という「脳の働き方のメカニズム」を抱えていたのでした。次のようにです。 |
加藤智大容疑者の「母親」は今の日本人女性のモデルです |
- 加藤の実家は、青森県青森市にある。公務員が暮らす裕福なエリアにある。
- 加藤は、市内の小学校に通い、市の陸上競技大会で入賞した。明るく、ひょうきんな姿でアルバムにおさまっている。
市内では、エリート校で知られる私立佃中に通った。県内で屈指の進学校、青森高校へ進学した。
- 「加藤は、地元金融機関に勤める父親、職場結婚した母親、3歳年下の弟と4人家族だった。
両親とも教育熱心で、スパルタで育てた」
- 「加藤は、高校生になると、母親にしょっちゅう暴力をふるった。
近所の人が、加藤の家から聞こえる大声をたびたび聞いている。
加藤は、高校はまじめに通っていた。家の中の顔と、家の外の顔は、別人だった」(調査事情通の話)。
- 「母親もまた、教育熱心だった。
弟も青森高に入れようとしたが、受験に失敗した。家の中は、ますますギクシャクした。家族の関係がうまくいかなくなった。
母親は、昨年、家を飛び出したようだ」(地元関係者の話)
- 「智大(ともひろ)の高校時代の年齢は、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の『酒鬼薔薇聖斗』と同じ年なんだよ。怖いよ」(報道による「母親」の話)。
(『日刊ゲンダイ』平成20年6月11日、10日発行より)
ここにあるのは、かくべつ加藤智大だけの家庭状況ではありません。「教育熱心」「エリート中学やエリート高校に入れるために尽力する」という父親、そして「母親」は、明治以降の日本の家庭に共通する「子育ての仕方」です。
「母親に暴力をふるった」ということと「母親が、子どもに冷たい態度や言葉を向けた」ことは、両義的です。加藤容疑者だけが、「誰でもいいから、人を殺す」というものの考え方(性格)を形成したということの根拠に、「スパルタ教育をして、エリート校に入れた」「勉強が辛くなったので、気持ちの安心が欲しくて母親に暴力をふるった」などの事実が適用されるのではない、ということをお話しています。
この加藤容疑者の生育歴のリポートで重要なことは、「母親との関係に距離がなかった」ということの一点だけです。
「乳児」「幼児」「少年」(少女)にとっての生育歴の中の「母親」とは、第一義的に「言葉」と「行動」を学習して、記憶する対象です。「母親」(女性)とは、そのような存在です。 |
日本人の「対人意識」は、「見る」「見られる」という視覚による記憶の仕方です |
- 日本人の住居は、うすいフスマ、板戸、障子(しょうじ)によって仕切られている。
家の中に生じる物音(人の声、動きの音)、赤ん坊の泣き声まで、容易に伝達して意識させる。
これらの音は、人の声(言葉)とその行為によってひきおこされた音、として聞かれる。
- これらのフスマや障子(しょうじ)がとりはらわれて開けはなたれると一目にして家の中のすみずみまで目がいきとどく。そこにいる人のあり方までに目がいきとどく。そこにいる人の精神状態にまで、目がいきとどく。
日本人はいつもお互いに、お互いの「視線」を感じている。または、いつも、人の視線を感じる可能性にさらされている。
- 視線やまなざしは、生理的な現象ではない。観察し、解釈し、判断することを意味する。また、人の感情や、その人の意図を告げるのが視線やまなざしである。人間の精神作用をものがたる。また、その人の精神状況もものがたる。
- このように、家の中での相互のまなざし、視線、眼の示す心理状況に敏感な態度は、互いに、相手の人の眼を気にする態度をつくる。そして、相手に自分はどのように見られるか?に最大の関心をもち、さらに一転して「見られる自分を気にする」という関係をつくる。すなわち「人の目を気にする」(otherconscious)とともに「自分が気になる」(selfconscious)である。
(『現代のエスプリ』127、至文堂。近藤章久『日本文化の配慮的性格と神経質』より)
日本人の対人関係は、明治以降、ここで近藤章久が考察しているように「見る」「見られるという「視線」による目の知覚(視覚)によってつくられてきています。欧米人の母親の子育ての仕方の「言葉」によって子どもを育成し、成長させる仕方ときわめて対照的です。
このことは、本ゼミの『初級コース』でくわしく解析してお話しているとおりです。
近藤がここでのべていることは、「人の目を気にする」「見られている自分を気にする」という「性格」のことです。
これが、「神経質」なる心身の病気の起源であるとつきとめています。
対人不安や対人恐怖、そして対人緊張の原因であるという説明です。
しかし、現代の日本においてもっと重要なことは、「脳の働き方のメカニズム」を形成するベースになっていて、それが、日本の「母親」をとおして、明治、大正、昭和、平成の現代へと「つづら折り」のように継承されているという社会現実の実体です。「母親」を固定的に、「真正面」からしか見えないという「クローズアップ」による「距離の無さ」が「右脳系の海馬」に記憶されています。これは、すでにお話しているとおり「母親」の「共同指示と母親の喜びの表情」という『意味』の『メタファー』を『左脳系の海馬』で記憶していないという「脳の働き方のバイアス」をつくるにとどまりません。すなわち、「母親を遠くに見る」という『意味』を憶えて記憶する脳の働き方になっていないのです。 |
「クローズアップ」という触覚の認知の「言葉」は「バッド・イメージ」しか了解できなくなり「うつ病」が本格化します |
すると、これは、「このことの意味はね、このようなものなんですよ」と説明する他者の「話す言葉」を「聞いているのに、しかし、聞いていない」という『離人症』(りじんしょう)という『聴覚障害』をつくる根拠にもなるのです。
『死ぬ気になればなんでもできるだろ』「それはねあなた、死ぬ気にならなくったってなんでもできちゃう人のセリフですよ」(6月8日の掲示板の書き込みよりの文章)といったことが『聴覚障害』のケースです。
- 「秋葉原で人を殺します」から始まり、凶行寸前の「時間です」まで、まるで実況中継のように合計30回も書き込んでいた。ところが、誰も止めようとしなかった。
- 「いろいろと書いているのに、誰も見てくれないよ」と語ったという。
- 「ネットを日記代わりに使っていた」という加藤の書き込みは異常なほどで、3000通にも及んでいた。
- 「ネットですら無視されちゃいました」「これを書けば人気!!になれるかと思った。でもそんなことはないみたいね」「あーあ、現実でも彼女がいなくて一人ぼっち、ネットでも一人ぼっちかよ」
(『日刊ゲンダイ』平成20年6月13日よりリライト、再構成)
この加藤容疑者の「行動」の記録は、「言葉」が「記号化した」というときの現象の仕方です。仕事でも、「仕事の指示」を「号令」や「命令」として聞く、というのが「記号としての言葉」の特性です。
「誰でもよいから殺害する」というのは、人間関係を「記号としての言葉」でしか成立させられなくなったとき、「自分の生理的身体」に「触覚の認知」によってくっつけて関係をとりきめる、というときの「安心のさせ方」(右脳のブローカー言語野の3分の1のゾーン)に「クローズアップのイメージ」を表象(ひょうしょう)させるという「脳の働き方」がつくり出す言葉です。「殺害する」というのは、「右脳系のブローカー言語野」に思い浮ぶ「バッド・イメージ」を現実化すると「快感報酬」のドーパミンが分泌するという『うつ病』の言葉です。 |