「言葉」と「脳の働き方のメカニズム」は相互性をもっています |
前回までの本ゼミでは、「書き言葉」の生成のメカニズムを明らかにするにあたって、「話し言葉」が「書き言葉」の土台になっていることをお話しました。
このような説明の仕方をお聞きになって、みなさまは、「なぜ、書き言葉の起源といわれている象形文字や絵文字の発明とか、開発の具体的なこととか、文法のつくられ方といったことがテーマにならないのか?」とお考えになる人もいらっしゃるかもしれません。
たしかに、そのようなアプローチの仕方から「書き言葉の生成のされ方」の解明を試みた言語学者もいます。しかし、そのような解明の仕方は、「文字」にしろ、「話し言葉」にせよ、言葉というものをあたかも「物理的に存在する」かのように取り扱う方法になります。「物理的に存在する」とは、たとえばエンピツや紙のように実在するもののことです。あるいは、ガラスのコップをスプーンで叩くとチンという音が発生しますが、このような物理的な接触や叩くという打ちつける衝突が起こって「話し言葉」というものが存在する、という理解の仕方になります。
最近は、コンピュータ系の電気技術も相当に進歩しているようですが、これらのメカニズムと同じ電気系の技術のような「記憶の仕方」が脳の中にもあるのではないか?という理解の仕方が、「言葉」を「物性物理」としてとらえる方法です。
しかし、よく考えれば誰にも分かることですが、「言葉」というものは「物が実在する」ようには存在していません。例えば、「本を読む」という体験を考えてみましょう。本は、たくさんの文字がびっしりと並んでいます。「読む」という行為は、今、自分が目を向けている文字のいくつかだけに注目することをいいます。
隣の行の文字の列は目に入りません。これは、脳の中に一つ一つの文字のつくる「内容」が取り込まれていることを意味します。
いいかえると、人間の生理的身体は、コップや紙やエンピツと同じ物理的な実在の世界に立っているのに、脳の中の世界はもうひとつ別個の世界をつくっているという理解の仕方が成り立ちます。 |
言葉は「観念」というものを生成します |
ポルソナーレでは、「無意識の観念の運動」という法則をカウンセリングの技法の裏付けの理論としてお伝えしています。落語家が、「ソバ」を食べるパフォーマンスをおこなうと、見ている人は、実際に、落語のストーリーに出てくる人物が「ソバを食べている光景」を思い浮べます。このときのパフォーマンスと「ソバを食べている光景」が「無意識の観念の運動」です。人間は、ある動作をおこなうと、その動作にともなう「メタ言語」による「言葉」のイメージが思い浮ぶ、というメカニズムです。これは、日本人の脳の働き方を理解したり、もしくは、脳の働き方をよりよく改善して発達させるというときの実技指導や自己学習の場面で非常に重要な法則です。
日本人は、「言葉を丸暗記する」という言葉の学習の仕方を教育制度の中にとりこんでいます。言葉の意味(原義)もまた暗記しています。これは遠山啓(ひらく)のいう『水道方式』の数(かず)と算数の「教え方」の、『タイル』(チョコレートタイル)の内容の「量としての数」を理解できないということによくあらわれています。「数」(かず)を「順序数」だけでしか理解しないので、現実の中では役に立たず、実害をもたらす、と遠山啓はのべています。このような「暗記主義」は、日本人だけに固有の「見る、見られる」という視覚を中心にした対人意識がつくり出しています。「人は自分を見る、自分は人から見られている」という対人意識のことです。このような対人意識を日々おこなっている中で、「では、言葉の意味(原義)を憶えよう」と取り組んでも結果的に、やはり「暗記主義」にとどめるというメカニズムが「経験同一化の法則」です。
このことは、何を意味するのでしょうか。
「言葉は、なるほど、意味(原義)を憶えなければ、変化する現実に向かって目的を遠くに見て計画立てた行動など1ミリもできるものではない」と納得したとしましょう。しかし、現実の人間関係は「距離が無いことが望ましい。どうしても距離の無い対人意識が欲しい」と考えれば、そしてもちろんそのとおりに実行しているとすれば、「経験同一化の法則」が働いて、「言葉」を「距離の無いもの」として憶えていく、ということです。
このような脳の働き方を見ると、「脳の働き方」は「距離の無い言葉と行動を生成する」という独自の世界を形成していると理解することができます。逆も成り立ちます。「ものごとは、どんなことでも距離があるということを本質とする」ということを言葉で考えるとすると、ここでは「距離をとった対象世界」というものが形成されていることが分かります。
ここまでのご説明をまとめると、こんなふうになります。 |
まとめ |
- 生理的身体は、物理としての存在である。「物の世界」と同じ系列の中に存在する。
- 人間の脳の働き方は「システム」として形成されている。「システム」とは、「言葉」と「行動」がつくる働き方のことで、「意味のイメージ」を表象しつづけている。
- 「意味のイメージ」は「前頭葉」で、モニターのディスプレイのように、あたかも目で見ているかのように思い浮べることをいう。
- この「意味のイメージ」は、人間が起きている時も寝ているときもつねに思い浮ぶという恒常的な「脳の働き方」を意味する。
- ところで、「意味のイメージ」は、二つの内容に分かれる。一つは、「距離がないという対象との関わり」を内容とするイメージである。もう一つは、「対象との関わりは、つねに距離がある」というイメージを思い浮べるものである。
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脳の働き方の「システム」は現実との相互性をもって独自の世界をつくります |
■ここでまとめたことは、何を意味するのでしょうか。「意味のイメージ」は、「右脳系の海馬」を中心とするケースでは、五官覚のいずれかの記憶がつねに思い浮んでいるということは、よくお分りのとおりです。夢を見るとか、不眠症などが「右脳系の海馬」の記憶の表象です。人の前で手が震えるとか、人が見ていると緊張する、などというのは、「右脳系の海馬」の記憶の表象が「現実」の中にも侵入して、侵犯していることでした。「距離のない対象との関わり方」がつくった「脳の働き方のシステム」の典型です。
「距離があるという対象との関わり方」は「遠山啓」(ひらく)が「数の数え方」のプログラムで展開してみせた「AイコールB」、「BイコールC」ならば「AイコールC」である、という「三者関係」を分かる「推移律」(因果律)によって対象と関わる「脳の働き方」のシステムのことです。
このいずれの「脳の働き方」も、いったんそのように形成されると、人間の身体の「行動」の結果がどうであろうとも、独自性をもって働きつづけるという特質をもっています。この脳の働き方の特質を決定づけるのが「言葉の憶え方」です。「憶えた言葉」が「脳の働き方」のシステムを形成してここから「意味のイメージ」を表象しつづけます。
この脳の働き方のシステムとは、いいかたを変えると「観念の世界」というべきものです。
この「観念の世界」が、脳の働き方の特質にもとづいた「意味のイメージの世界」を固有につくり出すのです。この「観念の世界」とは、マルクスや吉本隆明氏は「共同幻想である」と定義しています。
なぜ、「共同幻想」なのでしょうか。 |
この脳の働き方のしくみについて、無藤隆は、『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』の中で、次のように書いています。 |
- 満1歳前後から1歳半くらいにかけて、子どもの思考は大いに発展していく。そのような、まだほとんど言葉が出ていないような子どもが、意味やカテゴリーの体系をもっているといわれると驚くかもしれない。
とくに、言葉と思考とを同一に見ている立場からすると、言語以前に、カテゴリーのような高度な思考の基本があるなど、奇妙に思われることだろう。しかし、最近の証拠に照らしていえば、むしろ、言語と言語による意味は、言語以前の思考を基礎にして成立するのである。
- そのカテゴリーの根本は、しかし、抽象的な思考というよりも、外界の知覚に関連したイメージ的な思考によっている。つまり本来の意味でのカテゴリー思考の前段階にいると思われる。
- 2歳以降の子どもがある腫のカテゴリーを持っていることは、これまでの多くの研究で明らかである。だが、1歳代において、それはどのように可能なのか。とくに、言語を十分に獲得していない段階で、なおかつカテゴリーが形成されているか否かは、言語の発生にも関連してきわめて重要な問題である。
- それを調べる実験の方法のひとつに「物の操作課題」と呼ばれるものがある。次のようなものだ。
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さまざまな物を子どもの目の前に置く。この時期の子どもは、その物を順に触ったり、それを使って遊ぶ。
- もし、同じカテゴリーに属する物があると、この年齢の子どもは、その同じカテゴリーに属する一連の物を順に触っていくという傾向がある。
- もちろん、ある程度はでたらめのこともあるし、他の要因も働いて、明確にきちんとカテゴリーに分けているわけではないが、統計学的な分析をおこなってみると、明らかに、偶然よりも高い確率で特定のカテゴリーに属するものに集中的に触れるのである。
- たしかにこんな指標であてになるかという気もするが、実験で確かめられているし、日常的にも1歳代の子どもはでたらめに物を触るのではなく、似た物をまとめていじる傾向がつよいように見える。
- もっと上の年齢の子どもなら言葉で聞けばいい。逆に、0歳代ならば、物をいじらせるのは無理だ。だから「慣れる」などの方法を使うことになる。自分から積極的に物にかかわり、しかも、そのかかわりの仕方が「おもに触れる」ということであるのが1歳児の特徴である。
- これまでの研究では、生後9ヵ月からそのような傾向が見られる。
満3歳ごろになると、いわゆる分類ということができるようになる。もちろん、それだけではどのような種類のカテゴリーに対して子どもが反応しているかは明確ではない。だが、以上のような性質を利用して与える対象をさまざまな形で統制すると、子どものカテゴリー形成の様相が観察されるのである。
- アメリカ、カリフォルニア大学のサンディエゴ校の「マンドラー」と、ミネソタ大学の「バウアー」の研究によれば、子どものカテゴリー形成とは次のようなものだ。
- 14ヵ月から20ヵ月の子どもに「物の操作課題」をおこなわせる。台所にあるさまざまな「台所用品」と、浴室にある「入浴用品」の模型をいくつか子どもの前に並べる。
「台所用品」と「浴室用品」という二つのカテゴリーの二種類が子どもに与えられる。
- この研究では、明らかに、最小限一つのカテゴリー、また上の月齢では、二つのカテゴリーを多くの子どもが分類できることが分かった。つまり、台所用品を触る場合とはそれらのものに続けて触り、その次に、風呂場の用品にまとめて触る、といった傾向が見られたのである。
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Y経路は「空間性の世界」を脳の中に生成します |
■無藤隆によるリポートの中の、「カリフォルニア大学・サンディエゴ校のマンドラー」と「ミネソタ大学のバウアー」による1歳から1歳半までの乳児への「物の操作課題」という実験をとおして分かることについて説明します。
ここでは、「物のカテゴリー」ということがテーマになっています。「カテゴリー」とは、「台所用品」「入浴用品」といったように、ある特定の場所(空間性)の中にむすびついて存在する物のグループのことです。物と物どうしは、人間が使用する必然にもとづいて関連し合っています。「抽象的な秩序」を構成して存在している「物」のことです。
この実験では、二つのことが語られています。一つは、「げんに目の前にある物」は、「どこの空間性(場所)に属するものか?」が了解されているということです。この「了解」とは、「右脳系の認知」と「左脳系の認識」が完成した記憶のことをいいます。この記憶は、「左脳系の海馬」で記憶のソースを完成しています。
1歳から1歳半までの乳児が、「今、目の前にある物」は、「どこの場所(空間)に所属するものか?」を区別して、了解する、ということが実験をとおして、有意性のある統計学的な確率で確かめられています。これは「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」で、現実の物についてとその物の属する「空間性(場所)」が認知されていて、そして認識が成立している、ということを意味します。
すでによくお分りのとおり、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」は、「言葉の意味」を記憶する中枢神経の集中域である、とご説明しています。 |
Y経路の世界は、「意味」(原義)で成り立つ観念の世界をつくります |
1歳から1歳半までの乳児は、この「カテゴリーの了解」の中で、何をもって「意味」であると認識しているのでしょうか。
人間が、自分の居る現在位置から離れている遠くの物を「見る」のは、Y経路の知覚によります。Y経路とは、「物の動き」や「動きの変化のパターン」を認知します。さらに「物の動き方のパターン」(角度、距離、方向などの位置の変化と、そのパターンのことです)を認知します。
この認知は「右脳系」でおこなわれて、さらに「左脳系」が「右脳系で認知した記憶の表象」を認識してこれを「左脳系の海馬」で記憶するというメカニズムを成立させます。
言葉の「意味」とは何のことでしたでしょうか。遠山啓(ひらく)の『水道方式』を思い起こせば、「AイコールB」、「BイコールC」であるならば「AイコールC」であるという「推移律」(因果律)のことでした。乳児は、この推移律(因果律)を了解していることになるのです。それは、「母親に連れていってもらって、乳児の身体が移動する」という自分自身の推移律(因果律)を了解していることになるのです。それは、「母親に連れていってもらって、乳児の身体が移動する」という「自分自身の動きの変化」にともなう「対象となる物」の了解であるでしょう。「毎日、くりかえし入浴に連れて行かれる」、「毎日、くりかえし、台所に連れて行かれて水やミルクを与えられる」ことが「動きのパターン認知」の対象になります。乳児の「身体位置A」から「カテゴリー空間B」への行動と、「カテゴリー空間C」への行動が、「推移律」を構成するのです。「身体位置A」とは、ベビーベッドや乳児が固定的に置かれている「ベビールーム」のような空間性(場所)のことです。行動の本質は、「自分にとって楽しいことか、気持ちのいいことがもたらされる」というものでした。「入浴して身体が快適になる」「ミルクを飲んで身体にエネルギーが満ちて安心する」といった「行動の本質の原点」が『タイル』に相当する『意味』の記憶を生成します。
この『意味』の記憶が「カテゴリー空間B」(風呂場)と「カテゴリー空間C」(台所)を区別して、「別々のものである」という「パターン」の認知と認識を成立させます。メタ言語としてこの乳児の了解を再構成してみるとこうなるでしょう。「これは食べ物と仲良しのものだ。飲めばおいしいミルクが出てくる所にある物だ」、「これは、身体のぜんぶが気持ちよくなるもの(お湯)と仲良しのものだ。体がサッパリして、のびのびして気分よく元気になる所にある物だ」などと「メタ言語」によって表象されるイメージが『意味』になるのです。 |
母親の「愛着」が「共同の観念」を生成します |
二つめに分かることとは何でしょうか。それは、「母親」による「子ども」との関係の中で生成される『愛着』(あいちゃく)のメカニズムが、「物」の概念を「メタ言語」の次元で記憶させているということです。
無藤隆は、これを「指さし」(共同指示)というコミュニケーションの中で、「共同注意」という対象の特定化が発生する、とのべています。「共同指示」とは、「乳児の指さし」「乳児が、特定の物をじっと見つめる」「乳児は、母親が見た物をじっと見る」ということです。「共同注意」とは、母親が、乳児が見たり、指さしをおこなった物を与えるとか、その物の「名称」を話す、といったことです。あるいは、母親が「これはなあに?」と言うと、乳児もまた、ここで「発声する」ということが「共同注意」です。この段階の乳児は、まだ「メタ言語」の段階にとどまっています。発声はしても、「音声」の域にまでは、認知も認識も進行していません。
『愛着』のメカニズムの「同期」と「同調」が、「メタ言語」の『意味』を生成するまでに進化して、ここでようやく「発声が可能になる」のです。
『愛着』のメカニズムの「同期」とは「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」での「空間認知と認識」のことです。
「Y経路」が可能にします。また、「同調」とは、「同期」という行動や移動、動きの変化の中の「対象」が、「自分に楽しいことをもたらすか?」「自分に得することをもたらすか?」の行動の本質を了解すること、です。
「母親の笑顔、肯定的な喜びの表情」が原型になります。これは「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」で成立する了解意識(メタ言語)です。
X経路が可能にします。
この『愛着』のメカニズムの「同期」と「同調」が「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」で成立するときが、「話し言葉」の生成の条件になるのです。なぜでしょうか?「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」で認知と認識を働かせるのは「X経路」です。「X経路」は「行動の完結」をメタ言語の特質にしています。「行動は終わった」「何もしなくてもいい」「遠くまで動く必要も欲求も無い」というものが特質といったことの実体です。
ここには「言葉」というものは存在しません。「言葉」と「行動」は相互関係にあるので、「行動が止まる(終了する)」ということは「言葉もまた消える」という主旨です。 |
では、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」(中枢神経の集中域)は、どのように「話し言葉」を生成するのでしょうか。これは、「書き言葉」は、どのようにして「話し言葉」の上で生成されるのか?という問いと同義です。
無藤隆は、『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』の中で、次のようにリポートしています。 |
- 乳児は、0歳8ヵ月くらいまで に記憶力が相当に発達する。さまざまなことを24時間程度の間は、確実に憶えていられる。「長期記憶」は、0歳8ヵ月ごろまでには成り立っている。
- 「身ぶり言語」の研究では、象徴的に「身ぶり」をつかうという行為は、早ければ0歳6ヵ月、遅くとも0歳8ヵ月から0歳9ヵ月頃には観察される。
- しかし、もちろん、乳児は、一気に抽象的な思考に移るわけではない。1歳半ばごろに「思考」が完成する。この上に「言語」が形づくられていく。その前段階の「思考」は「イメージ思考」というべきものである。発達心理学者「マンドラー」は、このイメージ思考を「イメージスキーマ」と呼んでいる。マンドラーは「イメージスキーマ」を、「現に目に見えるものに類似した形象」が思い浮ぶ、「外界にある対象が単純化される」「単純化した形象を組み合わせて意味を組み立てる」ということがおこなわれている、と考察した。
「意味」を形成する「語彙(ごい)」のようなものが「イメージスキーマ」であるとする。
- 「イメージスキーマ」という考え方を展開したのは、「アメリカの認知言語学者のレイコフ」である。
- 「イメージスキーマ」は、空間的な構造が「概念構造」に移されたものである。
- 例をあげると「道筋」「上と下」「含み、含まれる関係」「部分と全体」「個と結びつき」といったものが、知覚的な構造から抽出されて、概念を組み立てるのに使われている、というものだ。
- 「道筋」という「イメージスキーマ」は、「ある対象が、空間のある軌道を通って移動する」ことを概念化するものだ。
- 「レイコフ」らは、「イメージスキーマ」は「比喩」の使い方と同じメカニズムをもつ、と考えた。
例えば、「取り上げる」という言葉は、必ずしも「物を下から上に手で持って持ち上げること」だけを意味しない。「概念的な空間」の中で「下から上への移動」の意味で用いられる。例……「お世辞の意味の持ち上げる」などだ。
「こき下ろす」は「逆の動き」になる。さらに「喜び」は、「上への動き」「爆発するような動き」のイメージになる。
「悲しみ」は、「下がるイメージ」になる。
このように、「イメージスキーマ」は、「空間的な関係と、空間的な中での動き」のダイナミックな表象である、と定義される。
- 「マンドラー」「レイコフ」らが提唱した「イメージスキーマ」の展開例を、乳児の観察にもとづいて示せば、次のとおりである。
- 乳児は、「生きているもの」と「生きていないもの」を区別する。
それは、「そのものの動き」を見て区別する。
- 区別の仕方は、「動きの始まりは自分から」か、「他のものがぶつかって動き始めるのか」により、大きく区別される。
これを0歳6ヵ月から0歳8ヵ月ごろにはおこなえるようになる。
- 「あるものが静止」している時「他のもの」がぶつかったわけではないのに「動き出す」というベクトルが「自分から動く」というパターン認知になる。
- 「生き物の動き」は、ある種のリズミカルな、しかし不規則なベクトルをもつものだ、とパターン認知される。
- 「機械的な動き」は、その動きが何かで曲げられないかぎり、まっすぐに動くというベクトルがパターン認知される。
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「ベクトル」(内容をもつ方向性)が「共同幻想」の起源をにないます |
■「ベクトル」といわれているのは、物理学の概念の「内容をもっている方向性」のことです。「速度」とか「エネルギーの量」が内容です。ここで「ベクトル」という概念が用いられているのは、乳児の「自分が関わった結果、物が動いた」とか、「乳児は何らの関わりももたないのに、物自体の動きで方向性をもって動き始めた」などの内容が説明されています。
「マンドラー」、「レイコフ」らの観察は、乳児の「脳」の中に、「イメージスキーマ」という、遠山啓の『水道方式』の中の『タイル』に相当する言葉の「意味」に当るものは何か?を明かにする、という試みです。マンドラーにつづいて、レイコフは、「自分」(乳児)や「物」の動きのパターンを「ベクトル」ととらえる「認知」と「認識」が記憶される、というように考察しています。
この「ベクトル」が『タイル』に相当する「意味」の原型になると理解しています。
- 物の動きは方向というベクトルをもつ。
- このベクトルは「上がる」「下がる」などが、何ごとかの共通のパターンになる(比喩のこと。持ち上げる、喜ぶ、悲しむ、こき下す(悪口を言う)など)。
- すると、物の動きのパターンの数だけベクトルが抽象的な「パターン認知と認識」として記憶される。この「パターン認知と認識」が、子どもにとって外界の「共同指示の世界」となる。
このような「マンドラー」や「レイコフ」らの乳児の観察は、何を意味するのでしょうか。
まず、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」と「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」の意識の違いがいわれています。意識とは、メタ言語を形成する「右脳系の認知」と「左脳系の認識」のそれぞれの記憶のことです。「左脳系」の認識が「左脳系の海馬」で表象(ひょうしょう)のソースを記憶します。このことはよくお分りのとおりです。
「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」は、「Y経路」が支配しています。この「Y経路」は、「対象がひとりでに動く」「自分が対象に関わって動かす」というように成り立つ意識の「世界」です。子ども(人間)が自在に関わるためには「動くもの、動かないもの」という「カテゴリー」が了解されて、この時の「関わり方のパターン」は「ベクトル認知と認識」によって区別されるし、また、正確な関わり方が成立します。
この「ベクトル」の認知と認識は、「母親」の「共同指示」をとおして学習されます。子どもは、「共同指示」が構成する「世界」に参加していくのです。ここで、「台所用品」と「入浴用品」の「カテゴリー分類、区別」の「物の操作課題」の実験を思い出しましょう。乳児は、「これは台所という空間性に属するものだ」「これはお風呂場という空間性に属するものだ」という「カテゴリー」にたいする「ベクトル」を表象していることになります。「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」は、「ベクトルによって成り立つカテゴリーの世界」という意識(メタ言語による認知と認識の世界)として完成しています。 |
観念の世界を成立させるのは「話し言葉」です |
これは、人間的な意識がつくる「観念の世界」というものです。乳児の実在するリアルな現実の世界とは相互性をもっているけれども、しかし独自性をもって生成された世界です。これが、吉本隆明氏のいう『共同幻想』の世界です。
X経路が支配する「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」は、「自分が動く」ことと「自分の動きが止まること」だけの「カテゴリー」と「ベクトル」が生成する観念の世界です。吉本隆明氏のいう「対幻想」や「個人幻想」しか成り立たない観念の「言葉」で成り立っています。ポルソナーレの定義でいうと「非社会性の世界」を成立させる「言葉」の生成でつくられる観念の世界のことです。
重要なことは、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」も「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」も、「リアルな現実」と相互性をもっていて、この相互性によって生成されるのである、ということです。
「ブローカー言語野・3分の1」と現実の相互性の契機は、生理的身体の目、耳、手、口などの五官覚であるでしょう。そして、「ブローカー言語野・3分の2」と現実の契機は、母親の『愛着』の中の「同期」と「同調」の中の「共同指示」(話し言葉)であるでしょう。 |
共同幻想とは、言葉の意味(原義)がつくる観念の世界のことです |
まず、「話し言葉」が「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」で生成されて、これが「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」の「共同幻想の世界」への通路を開くのです。通路の生成は、「物の動きのベクトルの認知と認識」(タイルに相当する「意味」の生成のことです)によります。
「話し言葉」が「物の動きのパターン」を「ベクトル」としてとらえて記憶すると、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」と「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」との相互性が成り立ちます。「個人幻想」や「対幻想」だけの「非共同幻想」の世界から「共同幻想」の世界への進出が可能になるのです。それを可能にするのは、遠山啓(ひらく)の『水道方式』の『タイル』に相当する『意味』(原義。乳児では物の動きのパターンのベクトル)です。
話し言葉の『意味』を、現実の中に相互性をもってくりこむときに、「書き言葉」の『意味』が「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」を完成させます。このときに、現実は、どこまでも自分にとってすみずみまで透視できる等身大の対象として認知と認識が可能になるのです。 |