人間の「観念」は、自律神経の恒常性(ホメオスタシス)が産出しています |
人間とは、観念と生理的身体との二つで成り立っています。
観念とは、心や精神といわれているもので、人間的な意識がつくり出します。
これまで、「人間とは、おおよそのところでいうとこういうものだ」ということは誰にとっても常識になっています。
しかし、「では、観念とは何のことだ?どのように、具体的に説明されるものなのか?」という問いには誰も答えられず、全くの未知の対象になっていました。本ゼミが明らかにして来た「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」は、ゆいいつ、その問いに答えるものです。「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」とは、いいかえると、「言葉の生成のしくみ」のことです。「言葉の生成のしくみ」とは、「話し言葉の生成のしくみ」のことです。この「話し言葉の生成のしくみ」は、「書き言葉の生成」によって完成します。その「しくみ」とは何か?といいますと、根本は自律神経の働き方のことです。
「自律神経」というものの働きがなければ、「同じように行動する」とか「みんなと同じように、自分も行動する」という恒常性は成り立ちません。
「観念」とは何か?といいますと、例えていえば、「家」の「設計図」とか「部屋の間取り図」のようなものです。あるいは、「道路地図」とか「船や、飛行機の運航地図」のようなものです。このような「観念」について、アメリカ・カリフォルニア大学サンディエゴ校のマンドラーは「イメージスキーマ」と呼んでいます。
「イメージスキーマ」というとき、ここでは、何に注目されているのか?といいますと、乳児なら乳児にとって目の前の現実の空間性や、この中の物とか生きているものの配置関係が、固定的なイメージとして記憶されていて、しかも、つねに恒常的に頭の中に思い浮んでいるということです。乳児も、そして大人も、このような固定的なイメージを「行動」の土台や前提にして生きています。「イメージスキーマ」は「固定的に思い浮べられて、継続して思い浮べられつづける」という特質をもっています。これが「人間の観念」といわれるものの重要な核心になります。「固定する」「継続させる」(記憶を維持して、その記憶を表象しつづける)ということをにない、可能にするのが自律神経です。自律神経の働きの根本の機能は「恒常性」(ホメオスタシス)です。この「恒常性」(ホメオスタシス)は、「固定」や「継続」と同義です。 |
脳では、自律神経の働きが工場のように働いています |
大木幸介は、『脳がここまでわかってきた。分子生理学による「心の解剖」』(光文社KAPPA SCIENCE)の中で、「自律神経」について、こんなふうに説明しています。
要旨をご紹介します。 |
恒常性 |
- 人間の体内の内臓、血管は、自律神経という無意識的に活動する神経に支配されている。身体の恒常性(ホメオスタシス)を維持している。
- 自律神経は、原始的な運動神経である。内臓や血管の「筋肉」を支配している。
- この「筋肉」を直接支配するのは「無髄神経」である。
- しかし、この「無髄神経」は、「脊髄」から出た「有髄神経」に支配されている。実際の自律神経は、「有髄神経」と「無髄神経」の両者で成り立っている。途中に「接続部」(神経節・リトルブレイン)がある。
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交感神経と副交感神経 |
- 「交感神経」は、ほとんど「無髄神経」である。「副交感神経」はほとんどが「有髄神経」である。(内臓の側、あるいは内臓に埋没している)。
- 副交感神経の性質や作用は、「脳内のA6神経」に等しい。
交感神経の交感(シンパセティック)は、交響曲の「交響」と同じ意味である。末梢の毛細血管を縮小させ、血圧を上げる。最大限に活動する「脳」「心臓」「骨格筋」に血液を送る。この「血液を送ること」の行き過ぎが「緊張しすぎ」、「身体がコチコチに固くなること」、「思い出そうとしても思い出せない」(失敗する)ことだ。
- 「大脳」にストレスを受けて過剰活動させると、同質の「有髄神経」の副交感神経が働きすぎる。食欲もないのに「胃腸」が勝手に働いて自己消化する。「胃腸」の潰瘍(かいよう)を生じさせる。
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無髄神経と有髄神経 |
- 「無髄神経」は、被覆のない「裸電線」の神経である。
「体内」という「水中」に「裸電線」が走っている。それが無髄神経である。情報伝達の速度は、「有髄神経」の「百分の一」のスピードだ。
(ホルモン分泌細胞どうしの伝達は、血液などの体液に乗って全身に拡散する、という伝達の仕方。毎秒数ミリから数センチの速度。女性ホルモンのケースが該当する)。
- 「有髄神経」は、絶縁被覆(髄鞘・ずいしょう)でおおわれている神経である。「無髄神経」の情報伝達のスピードは、「毎秒約1メートル」である。
だが、「有髄神経」の「情報伝達スピード」は、「毎秒100メートル」の速度である。
このように「電線」となって脳の中にはりめぐらせると、栄養補給の問題が生じる。このため一部の神経細胞は「栄養細胞」に分化し、「脳」の一部となった。
この栄養細胞は、神経を「膠」(にかわ)のように固めている。だから「グリア細胞」(神経膠細胞)となった。グリア細胞の一種が「神経繊維」にぐるぐると巻きついて細胞膜となった。この細胞膜は「脂質」でできている。これが「絶縁被覆」である。
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恒常性が「記憶」の根拠を支える |
■無藤隆によるリポートの中の、「カリフォルニア大学・サンディエゴ校のマンドラー」と「ミネソタ大学のバウアー」による1歳から1歳半までの乳児への「物の操作課題」という実験をとおして分かることについて説明します。
ここでは、「物のカテゴリー」ということがテーマになっています。「カテゴリー」とは、「台所用品」「入浴用品」といったように、ある特定の場所(空間性)の中にむすびついて存在する物のグループのことです。物と物どうしは、人間が使用する必然にもとづいて関連し合っています。「抽象的な秩序」を構成して存在している「物」のことです。
この実験では、二つのことが語られています。一つは、「げんに目の前にある物」は、「どこの空間性(場所)に属するものか?」が了解されているということです。この「了解」とは、「右脳系の認知」と「左脳系の認識」が完成した記憶のことをいいます。この記憶は、「左脳系の海馬」で記憶のソースを完成しています。
1歳から1歳半までの乳児が、「今、目の前にある物」は、「どこの場所(空間)に所属するものか?」を区別して、了解する、ということが実験をとおして、有意性のある統計学的な確率で確かめられています。これは「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」で、現実の物についてとその物の属する「空間性(場所)」が認知されていて、そして認識が成立している、ということを意味します。
すでによくお分りのとおり、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」は、「言葉の意味」を記憶する中枢神経の集中域である、とご説明しています。 |
Y経路の世界は、「意味」(原義)で成り立つ観念の世界をつくります |
■自律神経とはこのようなものだ、ということをあらためて確認していただく目的でご紹介しました。
大木幸介の自律神経の説明は、「首から上」と「首から下」の働き方の説明がないので、論理的な再構築が必要です。
「首から上」の自律神経の働きは「上向システム」(上行という表現のケースもあります)です。
「首から下の身体」に働くシステムを「下向システム」といいます。
ここで重要なことは、「自律神経」の「生命維持機能」の「恒常性」(ホメオスタシス)が、そのまま、「脳」の働きのシステムになっているということです。この「自律神経のもつ恒常性」は、脳細胞のもつ「記憶の特性」にも及んでいます。「心臓」や「肺」がひとりでに動いてひとりでに働きつづけるように、脳の中の「眼の細胞」「鼻の細胞」「耳の細胞」などのような知覚機能の特性にしたがった「記憶」を「恒常化」させているのです。
このことは、何を意味するのか?というと、「脳」の中で「記憶したこと」をそのまま「恒常化させる」ということの根拠になります。「記憶したことの恒常化」とは何のことか?というと、「イメージスキーマ」(アメリカのマンドラー、認知言語学者のレイコフらの定義)は、つねに、「イメージ」として表象されつづけている、ということです。それは、あたかも「家の設計図」や「道路の交通地図」「船や飛行機の航路地図」のようなものであるでしょう。これが、「人間の観念」というものの実体です。
この「観念」には、メカニズムとしての内容があります。
それは、「必要に応じて表象する」ということと「必要はないけれども表象する」ということの二つです。
人間の「観念」とは、1日24時間、起きている時も、寝ている時も恒常的に表象しつづけているイメージ(「イメージスキーマ」という言い方でもよいのです)のことをいいます。
「必要に応じての表象」とは、「行動」にむすびつく時のことです。
「必要性はないけれども、表象する」というのは、「行動が止まっている」か「半行動停止」の時のことです。そして、「必要に応じて表象して、行動にむすびつく」という場合が、「話し言葉」と「書き言葉」を生成する「観念」になるのです。
「必要性はないけれども、表象する」という場合は、「夢をみること」「不安を動機にした妄想のイメージを喚起させること」「白日夢のように過去の記憶を追憶しつづけること」などが該当します。
では、「観念」のメカニズムとは、どのようなものでしょうか。 |
これまでに、無藤隆の『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(講談社現代新書)からご紹介してきた「乳児」の「行動」とその「能力」の生成の観察や実験から、要点をまとめると次のとおりになります。 |
カテゴリーの記憶 |
- アメリカ、カリフォルニア大学サンディエゴ校のマンドラー、ミネソタ大学のバウアーは、「14ヵ月」から「20ヵ月」の乳児に「操作課題」の実験をおこなっている。
- 「操作課題」とは、たとえば「台所用品」と「浴室用品」の模型をいくつか、子どもの目の前に並べて手に取って触らせる、というものだ。
- 「操作課題」の実験の目的は、「台所用品というカテゴリー」と「浴室用品というカテゴリー」を分類できるか?どうか?というものだ。この実験をとおして、「カテゴリー別に分類する」という有意性のある統計結果が得られている。
- 「1歳代の乳児」の「カテゴリーの分類」の内容は、次のようなものだ。
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「上位、下位の関係のカテゴリー」を把握する……「動物」(注・上位概念。すなわち抽象性の高いカテゴリーのこと)と「犬」「猫」(下位概念。具体的なもので上位概念に含まれるもの)とを分けて、区別する。
「乗り物」(上位概念)と「乗用車」「トラック」(下位概念)とを分けて区別する。
- この年齢の乳児は、まだ概念思考はできない。
階層的な体系としての「上位」「下位」というとらえ方をしているのではない。
「大きく、二つのカテゴリーに分けられる。さらに、より小さいカテゴリーがある」というとらえ方をする。
- 「カテゴリー分類と区別」の実験の結果は、次のようなものである。「犬」対「馬」、「乗用車」対「トラック」と区別する。「犬」対「うさぎ」、「乗用車」対「オートバイ」を区別する。「犬」対「魚」、「乗用車」対「飛行機」を区別する。
- このような「カテゴリー」を区別する思考を、マンドラーとバウアーは、言語以前の「イメージ思考」と考えた。
- 「乳児」の「イメージ思考」は、乳児自身の「知覚」の記憶が基盤になっている。この「イメージ思考」は、「言葉の語彙(ごい・言葉の体系のこと)の意味」のようなものだ。この「言葉の意味のようなものだ」ということを指して、マンドラーは「イメージスキーマ」と呼んだ。マンドラーは、この「イメージスキーマ」から「概念」が形成されていく、と考えた。
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イメージスキーマの記憶 |
7. アメリカの認知言語学者・レイコフは、マンドラーの「イメージスキーマ」を「比喩」に相当する、と考えた。「比喩」とは、「その対象はどのような形か?その対象は、どのようなもので、何であるのか?」ということを不問にして「空間的な構造」としてとらえることをいう。
その「比喩的なとらえ方」とは、「道筋」「上と下」「含む、含まれる」「力」「部分と全体」「結びつき」といったことだ。これらが空間的な構造として知覚されて、そして記憶されている。
8. 「イメージスキーマ」とは、乳児にとっては「空間的な関係」と「空間の中のものの動き」のことだ。
乳児は、これらを「知覚された情報」をさらに抽象化して、単純化して記憶している。
「基礎的なイメージスキーマ」とは、次のようなものだ。
- 「生きているもの」と「生きていないもの」の区別。
これは、「物の動き」を目で見て区別する。
- さらに「その物の動き方」を目で見て区別する。
- 「動き方」とは、「動きの始まり」が、「自分から動くのか」、「他のものがぶつかって動くのか」を区別する。
- 「自分で動きだす」というのは、「あるものが静止している時、他のものがぶつかったわけでもないのに動き出す」ということを区別することだ。
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ベクトルの記憶 |
9. 「乳児」は、「物」を見て知覚して、「動くもの」「動かないもの」のカテゴリーを区別して記憶する。これは、0歳6ヵ月から0歳8ヵ月になると、区別が可能になる。
「因果関係」を理解するということだ。
また、「ものの動き方」に注目して「動くもの」と「動かないもの」を区別するということは、「動きのベクトル」を知覚して、記憶する、ということだ。
「ベクトル」とは、「方向性」のことである。「方向性の中に、エネルギーとか、動く時間などの内容が含まれるとき」が「ベクトル」である。
- 「生きているもののベクトル」……ある種のリズミカルな、しかし不規則な動き方をするという特徴をもつ。(注・1歳から2歳の子どもに動物のモデルを与えると、ぴょんぴょんと跳ねさせる)。
- 機械的な動きのベクトル……それが、何かで曲げられないかぎりはまっすぐに動く。
(注・1歳か2歳の子どもに乗り物のモデルを与えると、まっすぐに進ませる)。
- 因果的な動きのベクトル……ある物が止まっている時、この物にぶつかるというケース。
「ぶつかるベクトル」と「ぶつかったものが動く方向のベクトル」を記憶する。
- 「物が落ちて、落ちた反動で動くというベクトル」……ボールが落ちる、ボールが投げられて何かにぶつかり、いきなり動き出すというベクトルを記憶する。
- 「生きていないもの」が動かされると、どこまでも動いていくという「ベクトルの長さ」を記憶する。
- 「生きているもの」が、「生きていないもの」を動かすというベクトル……「生きているもの」は自らの「意志」で動く(主体性エイジシーと呼ぶ)が、これが「生き物の動き方」のベクトルである。「生きているもの」が「生きていないもの」を動かすというベクトルを記憶する。
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乳児の「記憶のソースモニタリング」 |
■再構成して、要点のみをまとめて整理しました。ここで分かることは、「乳児」が、どのように「観念」という世界を生成していくのか?という脳の働き方のメカニズムです。
人間は、乳児はもちろん、大人も「記憶のソースモニタリング」によって行動します。ご紹介している「乳児」の「カテゴリー」の認知と認識の記憶は、そのまま、大人になっても「記憶のソースモニタリング」の記憶の「ソース」になるものです。同じように、「乳児」の「生きているものと生きていないもののベクトル」の認知と認識の記憶も、「乳児自身」の生涯にわたる記憶の「ソース」になるものです。
ご紹介している「カテゴリー」と「ベクトル」の記憶は、「乳児」の位置から離れている距離にある対象についての了解であることはよくお分りのとおりです。
そして、「乳児」が、それらの対象に触れる時は、それらの対象が置かれている「空間的な位置や、空間性の関係」を思い浮べていることの証明になります。「触れる」というのは「行動」ということと同じ意味です。「思い浮べる」とは、「記憶のソースモニタリング」による表象(ひょうしょう)のことです。
「乳児」の「動いているものと、動いていないものの空間性の位置、それらのものの位置関係」は、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で表象(ひょうしょう)されます。同じように、「台所」とか「風呂場」といった「空間性」とそのカテゴリーの区別や分類も「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で表象(ひょうしょう)されます。
視覚の知覚神経の「Y経路」が認知して、「左脳」の「X経路」が認識して「左脳系の海馬」で記憶されています。
この「左脳系の海馬の記憶のパターン」が「カテゴリー」であり、「ベクトル」であるのです。
「乳児」は、「右脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に具体的なもののイメージを表象(ひょうしょう)させます。「犬」「猫」、「乗用車」「魚」「台所用品」「入浴用品」などの形象的なイメージのことです。これは、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で認識して記憶された「空間性のカテゴリー」や「物の動きのベクトル」が対応しています。
無藤隆の紹介するマンドラー、バウアー、レイコフらの実験や観察によれば、「乳児」の「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で認識される「空間性のカテゴリー」とは、「上と下」「部分と全体」「含む、含まれる」といった「空間性の関係」のことだということです。
また、「ベクトル」の場合は、「道筋」「力」「結びつき」などの空間性の関係が記憶されます。これらの「空間性の関係」が、「右脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に具体的な対象のイメージを表象(ひょうしょう)させるのです。 |
乳児の行動の仕方 |
「上と下」、「部分と全体」、「含む、含まれる」という空間性の関係は、これはそのまま「比喩」になるとレイコフは観察しています。比喩とは、「取り上げる」(下から上への移動の意味、お世辞の「持ち上げる」が用例)、などのような「行動」の内容のことです。「部分と全体」の比喩は「母親の喜びの表情に包まれる自分が安心する」といったことです。
「母親は自分の気持ちの全体」「自分は、母親の気持ちの部分」という一体感の中の「行動」のつながりの不可分一体の関係を意味するでしょう。
同じことは、「生きているもの」「生きていないもの」のカテゴリーと、「物・生きているもの」の「動きのベクトル」にもあてはまります。「力」「道筋」「結びつき」などの空間性の関係は、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」では、「比喩」として認識されて「左脳系の海馬」に記憶されるのです。「母親の表情は喜んでいる。だからこのまままっすぐ動いてもよい」「母親の見ているものを自分も見る。すると、母親の話し声が耳に入ってくる。すると、自分から動きたいという力が湧いてくる」などの「意味のイメージ」が、レイコフのいう「喩」の意味です。 |
「人間の観念」の生成とそのメカニズム |
ここでは、みなさまは、一体、何を見ていることになるのでしょうか。
人間の「観念」というものは、このようにして生成する、というメカニズムをリアルに見ていることになるのです。「観念」とは、「乳児」に置き換えると、「台所」「風呂場」などの「空間性」がそのまま「右脳のブローカー言語野・3分の2のゾーン」に思い浮ぶことをいいます。そして、この「思い浮ぶ」という空間性のイメージは、ある日突然消えて消滅したり、形や形象が変化して別のものに変わるということはありません。恒常的に表象(ひょうしょう)されつづけます。
しかし、その「空間性のイメージ」は、絵画のようにずっと固定的に表象(ひょうしょう)されっぱなしであるということではなく、「行動」と「行動の必要」に応じて思い浮ぶ、というしくみになっています。「行動」と「行動の必要」とは、「自分が今、げんに見ているもの」(関わっているもの)に対応する、ということです。「対応」とは、「今、自分が見ているものは何であるか?どのように関わるか?」という関係づけが発生するということです。このときに、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に「ベクトル」や「カテゴリー」といった認識にもとづく「喩」(比喩の原型)が表象(ひょうしょう)します。この「喩」とは、「行動」の価値と同義です。「母親の表情が喜んでいる。だから安心して進んでもいいんだ」という「行動のもっとも望ましい状態」が「価値」です。
このように、乳児自身の「行動」に応じて「右脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に、現実の具体的な対象がイメージとして思い浮びます。 |
言葉の「意味」の生成の仕方 |
みなさまにはすでにお分りのとおり、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に表象(ひょうしょう)される「カテゴリー」の「上と下」「部分と全体」「含む、含まれる」などを原型にした「喩」が、「比喩」に発展して、言葉の「意味」になります。同じように「ベクトル」の「道筋」「力」「結びつき」などが「喩」となり、「比喩」になって、言葉の「意味」になるのです。
ここで、少し、ご説明をショートカットして跳躍させますと、「乳児」のこのような「観念の世界」(・注……現実の空間性と相互性をもって対応しているので、世界という言い方をします。無藤隆は、グローバルなカテゴリーと関わる、という言い方をしています)の生成は、「話し言葉」(概念)の記憶へと発展したとき、「幻想」という言い方が成り立つのです。なぜ、「幻想」というのか?というと、「ベクトル」や「カテゴリー」という言葉の「意味」の原型が記憶されたとき、「乳児」の頭の中に思い浮ぶ「空間性」と「空間性の中の物、動物、人間」と、リアルな現実の中の対象とが、乳児自身の「行動」で一義的に結びつくからです。「乳児自身」の頭の中(左脳と右脳のブローカー言語野・3分の2のゾーン)に思い浮ぶイメージは、手に触れるとか、口に入れて飲み込めるなどが可能な実体性をもっていません。しかし、この表象(ひょうしょう)が無いと、「乳児」は、実体性をもつ対象を手に触れられないし、口に入れて飲み込むこともできません。「行動」によってむすびついていて、そして「行動」を実現させるので「現実の対象と等価」です。この「等価」ということが「幻想」という特別に用意した言葉をあてはめるのです。 |
観念が「幻想」と「共同幻想」に発展するメカニズム |
さらに、ご説明を跳躍させますと、「共同幻想」という言い方は、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で認識して「左脳系の海馬」に記憶された「意味」の言葉を「3人以上の人間」の間で、「この言葉の意味することの行動は、とくべつに、ルールにしませんか?」と話し合って、「いいですね」と了解し合った時に成り立つものです。「ルールにしませんか?」というのは、たいてい、「行動してはいけない」「こんなふうに行動しなくてはならない」というように、「行動の規制」になります。すると、「3人以上の人間」の「左脳・ブローカー言語野」では、「この言葉の意味のことは、行動してはいけない」という規制や制約、行動の限界などの「意味」が結合します。
それは、「夜、手や足の爪を切ってはいけない」とか「夜、口笛を吹いてはいけない」「寝ている人の頭をまたいで歩いてはいけない」といったような「禁忌」(きんき・嫌って避けること)の演習から始まったかもしれません。
「3人以上の人間」というのは、単純化したいいかたをすると「社会」ということです。「社会」というのは、人間の生理的身体を含む「人間の集合体」のことです。物、食べ物、水、動物、生産、交通などをぜんぶ含む「物理的な世界」のことをいいます。この「物理的な現実」とは全く区別される「頭の中に思い浮ぶイメージ」だけのことをさして「幻想」という言い方がなされます。 |
「共同幻想」という言葉はなぜ生成されたのか? |
「幻想」とは、辞典には「根拠のない空想」「とりとめのない想像」といった意味が「原義」として説明されています。ひとりの人間の「頭の中に思い浮ぶイメージ」としてだけ見ると、「根拠のない」「とりとめもない」という理解の仕方になるでしょう。しかし、「想像」とか「空想」といったことは、ひとりの人間を見ても「たしかに、そのような意識による現象はだれにもある」というところだけに注目すると、「幻想」という言葉は、「根拠がない」ように見えても、「とりとめがない」ように見えても、何かの影響を受けて思い浮ぶイメージとその脈絡であることは否定できません。「共同幻想」という概念を強力に打ち立てたマルクスやヘーゲルは、人間の歴史というものを見ると、ある時代、ある社会の人間は、そのつど「とりとめもなく空想していること」や「根拠なく想像していること」の中身が違うじゃないか!!と注目しました。「なんでこんなにも違っているのかな?」としっかり観察してみると、誰かが、「こうしろ」「ああしてはいけない」ということを言っているのです。この行動の規制や制約は、その時代、その社会のみんなが受け止めています。
とりとめもないように見えて、実は、誰かの「意思」に作用されたことしかイメージしていません。吉本隆明氏の『共同幻想論』を読むと、自分の戦争のときの体験は、「みんながこうしよう」と言ったことをあまりにも素直に受け容れすぎた、という内省が「人の言った言葉に疑いをもつ」「人の言った言葉のとおりに、とりとめもなく空想なんかしたくないよ」という考え方になって「共同幻想」ということの解明の理由になっています。吉本隆明氏のこのような「共同幻想」の解明の取り組み方は、現在の日本と世界の「金融システムの信用の収縮」と、これが引き起こしているおおくの問題を考えるときにも役に立つものです。少なくとも、人間は、「左脳と右脳」に「ブローカー言語野」を初めから誰もが持っています。誰かが、「丸暗記はいいですよ。資格が取れますからね。だいいち、どんな試験にも合格できますよ」と言ったとしましょう。これは、「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」で「とりとめのない空想」や「根拠のない想像」のイメージを思い浮べるしかない「行動」を産生させます。「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」は、自律神経の「X経路」が支配する領域だからです。
側頭葉の「ウェルニッケ言語野」に隣接して、生理的身体の生の感情と生の欲求にダイレクトにむすびついています。「とりとめのな」「根拠のない」ということは、生の感情や生の欲求を意味としてあらわすので、「3人以上の人間の集合」の中では意味不明のイメージになることをいいます。 |
「書き言葉」の威力と恐ろしさとはこういうものです |
さて、今回の本ゼミでお伝えしたいと思ったことをまとめます。
「書き言葉」は、人間に「観念」が生成されて、この「観念」が「幻想化」されたことがベースになっています。「幻想」とは「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で、『カテゴリー』とか『ベクトル』といった認知と認識が「言葉の意味」の原型をつくる、というメカニズムの言い換えのことでもあります。この『カテゴリー』とか『ベクトル』が「話し言葉」を生成します。この「話し言葉」が、ヘーゲルやマルクス、吉本隆明氏のいう「共同幻想」をつくり出します。「幻想」とは、「言葉の意味」が「行動」を制約したり、規制するルールとして、「3人以上の人間」で了解されることが、その本質です。「幻想」といっても、「恵比寿のクリスマスツリーの上に舞う冬の夜空のうさ子さんは、いつ見ても幻想的できれいだねー」という解釈的な後付けの「意味」とは全く別のもので、人間的な意識の心的な現象を指すことは、よくお分りいただけているとおりです。
「書き言葉」は、人間の「行動」をシバリつけ、制約を加えるという必要と目的で生成されています。「幻想」とは、本来は、ヘーゲルのいうように「同一性」を根拠にして成り立つもので、「3人以上の人間」は互いに「自由な意志」で「共同幻想」を支え合うものです。しかし、「アジア型専制デスポット」の「意思の主体」のように、「じぶんだけが自由で、他の下々(しもじも)のひとびとは常識がない」という「共同幻想」のスタイルもあります。ここに、吉本隆明氏が、「個人幻想」(ブローカー・3分の2のゾーンで言葉の意味を確立して、自立すること)という概念を、さながら無底の奈落に打ち建てたことの意義があります。
次回は、このあたりに焦点をあててさらにお話をすすめていきます。 |