人間は、脳の働き方の中に「社会性の世界」と「非社会性の世界」のシステムを生成しています |
ポルソナーレのカウンセリング・ゼミ『カウンセラー養成ゼミ』は、「脳の働き方のメカニズム」を解明して、ゼミ生の皆様に特化してお話しています。
脳は、そもそも「言葉」をどのようにつくり出すものか?「言葉」とは、「話し言葉」と「書き言葉」の二つのことだが、この「話し言葉」と「書き言葉」を、脳は、いったいどのように憶えて、憶えた言葉をどのようにして、どこからうみだすものか?などの「問いかけ」に答えて、そのしくみを明らかにしてきました。
このような考察は、重要な意味をになっています。どのように重要な意味があるのかといいますと、単に、「言葉の障害」を治したり、正しく教えるということが可能になることにとどまりません。
みなさまもすでによくご存知のとおり、平成20年9月と10月にアメリカ発の「金融システム」の不安が発生しました。「信用不安」といわれていることもよくご存知でしょう。では、この「信用」とは何かというと、この問いに答えてサッと答えられる人は少ないでしょう。 |
「信用」という言葉とは、どういう言葉のことか? |
この「信用」という言葉はいろいろな場面で用いられます。「あの人は信用できる人物だ」とか、「あなたを信用して、あなたの言うとおりに実行してみよう」などが「信用」の場面や状況です。大切なものや重要なものを相手にゆだねて、自分の手元から離すこと、の意味です。「信用不安」とは、この大切なもの、重要なものが「お金」(資本)になります。大量の「資金」を「銀行」などのような金融機関から「信用」してもらって工場を作ったり、商品の材料を仕入れるために遣うこと、が「信用」です。
「しかし、いったん信用して、大量の資金を手元から離せば、約束の期日までに戻ってはこないだろう」と「金融機関」が考えることが「信用不安」です。
この「再び、手元に帰ってくることはない」という不安の直接のきっかけをつくったのが「低所得者向けの住宅ローン」(サブプライムローン)です。「低所得者」は、失業したり、リストラで職を失うと「収入」がとだえます。「収入」が止まると「ローンの返済」が止まります。このような「止まり」の現象が大量に発生したという問題が「金融システムの不安」の始まりです。
ここで考えていただきたいことは、「信用」という「言葉」がすでに『社会』の中にあるので、「お金を貸す」とか「商品の購入を予約する」という「行動が成り立つ」ということです。
これは、「信用」という「言葉」の『意味』はこういうものだ、とよく分かっている人が「自分の行動」にむすびつけるということでもあります。
「信用」という「言葉」の「意味」を確かに分かっている人は、「自分に与えられている信用」にもとづいて、「信用の内容」に見合う「確かな価値」を返すでしょう。「確かな価値」とは、「安心」や「安全」、そしてその「持続」のことです。ポルソナーレのカウンセリング・ゼミもそのような価値観にもとづいて運営されています。「金融不安」の「バブル」とは、「安心」や「安全」を「期待する」という価値の考え方でつくられた「信用」のことです。しかし、「期待どおりの価値が実現しなかった」という「不信」をもたらしました。これが「バブルの崩壊」です。 |
「信用」という言葉の意味を分かる脳と、分からない脳の違いについて |
問題は、ひとりひとりの個人が「信用」という言葉は知っていても、その「正確な意味」を知らなかった場合、「信用のシステム」をどこまでも拡大して「信用のバブル」をふくらましつづける「意思」が生まれるということにあります。なぜ、こういうことが起こるのか?というと「ひとりひとりの個人」の「脳の働き方」の中に「知らないがゆえに受け容れる」というメカニズムがあるからです。その「脳の働き方のメカニズム」とは、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」(中枢神経の集中域)のことです。
人間は、誰でも「言語中枢」の「ブローカー言語野」を脳の中にもっています。「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」では、誰もが、「0歳3ヵ月」くらいから「言葉の意味」の原型となるものを記憶しています。
「言葉の意味の原型になるもの」とは何か?といいますと、「物は動く」「物は動かない」というカテゴリーを分かること、そして、「動く物は、ひとりでに動く」「動くものは、何かの影響で動く」ということを分かることが「言葉の意味の原型」になるのです。
乳児の「言葉以前の言葉」の理解の能力を実験をとおして観察した人は「カリフォルニア大学、サンディエゴ校のマンドラー」、「ミネソタ大学のバウアー」、「アメリカの認知言語学者のレイコフ」です。
とくに「レイコフ」は、「乳児は、物の動き方のパターンと、動きのベクトルを理解する」ということを、実験をとおしてみつけ出しました。この「物の動きのベクトル」が「言葉の意味の原型」になるものです。
「ベクトル」とは、「動きの方向」ということです。この「方向には、量やエネルギーの内容がある」という場合に用いられる物性物理の概念です。
このことは、人間は、誰でも「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」をもっていて、「信用」なら「信用」という「言葉の意味」を「自分の行動とむすびつけることが可能である」ということをものがたります。このような行動は、「入浴のときは風呂場に行く」、「食事を摂るときはキッチンでいただく」「トイレの必要を感じたときは、トイレに行く」という分かり方が「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」の「Y経路」が記憶する「動きの方向のベクトル」です。
この「動きの方向のベクトル」が「言葉の意味」の原型になります。遠山啓(ひらく)の『水道方式』で教える『タイル』(チョコレートタイル)に相当します。
すると、『水道方式』では、「タイル」をとおして数(かず)の学習を学ばなければ「量(りょう)としての数(かず)」が分からないことと同じように、「動きの方向のベクトル」の理解の上に、さらに「言葉の意味」を学習して学ばなければ、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」の上で成り立つ「信用」なら「信用」の世界には入って行けないということを意味します。 |
「信用」という言葉はブローカー・3分の2のゾーンで社会性の世界をつくり出す |
「信用」という言葉は、ひとつの例です。「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」は、個人としてみると「一人の人間の脳の働き方のゾーン」です。
この「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」をもつ「3人の人間」が集まると「集合としてのブローカー言語野・3分の2のゾーン」が「食事はキッチンで摂るべきである」「入浴は、風呂場でおこなうべきである」「トイレは、必ずトイレという空間でおこなうべきである」というように、『意味』のもつ「行動」とのむすびつき方を「ルール」として決定します。
これが「社会秩序」というものです。
このように、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」の「空間性の意識(観念)」に「3人以上」(社会性)の間で「ルール」という強制性を与えたのが「社会性の世界」です。この「ルール」(言葉の意味のとおりに行動せよという強制のこと)は「人間のひとりのブローカー言語野の3分の2のゾーン」から生成されて独自性をもって存在しつづけるので「観念」といいます。この「観念」が「3人以上の人間」(社会化)にも共通性をもつので、「ルール」という強制力が与えられているものだと考えたのがヘーゲルやマルクスです。その「強制力の与えられ方」をできるだけ起源に近いところで再現してみせたのが吉本隆明氏の『共同幻想論』です。
つまり「ルールという強制力が与えられた個人の観念の3人以上の集合」のことを「共同幻想」といいます。
ここでお話したいことはこうです。それぞれの皆さまが、ご自身の「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」の中の「動きの方向のベクトル」という言葉の意味の原型に、たとえば「信用」なら「信用」という「言葉」の「正確な意味」を学習して記憶していなければ、どうなるか?ということです。「信用の膨張」という「バブル」および「バブル性の商品、サーヴィス」にルール、もしくは擬似ルール(有名な○○大学教授が言った、など)という強制力が与えられると「バブルの崩壊イコール信用の消失」の犠牲になるでしょう。
その犠牲の一例とは、次のようなものです。 |
「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で言葉の「意味」を憶えていない言語障害の例 |
- 前向性健忘症……新しい仕事や勉強の言葉を憶えられない。憶えようとするとひどく緊張して無呼吸症が起こる。心臓の心拍が低下して、「自分は死ぬのではないか?」と錯覚したパニックや心停止の不安を感じる。
- 逆向性健忘症……相手が話した言葉の意味が分からないので、話された言葉そのものを記憶できない。したがって、相手の話を前提にした答え方、返事の仕方、そして相手の言葉にしたがった行動ができない。有益なアドバイスや、仕事の指示のとおりの行動ができないので、不安とともに「現実」に呑み込まれる。
このような「言語障害」は、ひとりの人間の脳の働き方としてみると、「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」にとどまっているという状態のことです。
一方、「現実の世界」は、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」で記憶される言葉(概念)とその「意味(原義)の言葉」によって成り立っています。「言葉」は、脳の中で記憶されてその『意味』となることのイメージがつねに表象(ひょうしょう)されています。現実と相互性をもちながら、しかし、頭の中では、独自に『意味』のイメージを表象して、『意味』のイメージの「集合」をつくっています。これは、「白日夢」や「妄想」を語っている人の言葉を聞くとよく実感されます。この『意味』のイメージの集合のことを「観念」といいます。このひとりひとりの人間の「観念」が、「3人以上の人間」が集まると「社会性の世界」と呼ばれています。
すると、言葉の意味(原義)の学習の欠如が、社会性の世界(3人以上の人間の観念の集まりの世界のことです。これが共同幻想のことです)への参加を不能にさせるということがよくお分りでしょう。 |
遠山啓(ひらく)は、『幼児の算数』(国土社・刊、栗原九十郎との共著)の中で次のようにのべています。
エクササイズ・Ⅰ |
- 子どもにふさわしくないまちがった教育ならば、やらないほうがましだ。
それは、真白な紙の上に落書きをするようなものだ。その後の勉強のじゃまになる。
- 従来の算数教育でいちばんまちがっていたのは「数え主義」である。「数え主義」とは、暗記している「数のコトバ」を口に出してとなえているうちに「数というものの大切な意味」を忘れてしまうことになりがちだ。
- ところで、「数の本当の意味」とは何なのか。
「いち」「に」「さん」という数のコトバは、何もないところにコトバだけが生まれたわけではない。
「りんご」「みかん」などという言葉が、その実物の物を元にして生まれたことと同じ「生まれ方」をしている。
「いち」「に」「さん」という言葉も、その背景には、元となる「一つ」「二つ」「三つ」という数をもつ「実物の物」の集まりがある。
「いち」「に」「さん」というコトバを暗記することだけをおこなうと背景にある「実物」(現実)を忘れがちになる。「いち」「に」「さん」は、背景にある「実物」(現実の中の物)が「多いか」、「少ないか」を言いあらわす言葉である。
「多い」か、「少ない」か?とは「量」(りょう)のことだ。「数」とは、「量」をいいあらわす言葉である。
- 日本は、明治の終わりから大正をへて昭和のはじまりまで、「算数」の教育といえば「数の言葉を暗記させる数え主義」だった。藤沢利喜太郎(一八六一年~一九三三年)が主導した。
この当時の子どもは、計算はなんとかできるが、しかし、その計算を現実の中の「事実上の問題」に正しく当てはめて解くということは不得意だった。
一般的に、子どもをもつ母親は「数を知る」こととは、「数の名前を憶えることだ」とかんちがいしている人がおおい。
昭和10年から新しい算数教育の教科書になったが、この教科書も、「数え主義」に根ざした「暗算のやりすぎ」という欠陥をもっていた。
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エクササイズ・Ⅱ
あとかたづけ
(子どもに類別ということを教えるカリキュラム) |
- 生活指導と関連させて教えてもよい。
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ビニールの袋を数個、用意する。このビニールの袋の外側に「1」「2」「3」のタイルの絵を貼りつける。
- 「1の物」は「1のタイルの袋」に入れる。「2の物」は「2のタイルの袋」にしまうというすすめ方である。
- 「この袋は、何の袋といったらいいでしょう?」と問いかける。
「2のタイル」が描かれているものを示す。すると、「チョコレートタイル」の実物でなくても、「に」という答えは期待できる。
- 「1の袋」「2の袋」「3の袋」も同様に確かめる。
- 「では、いちの物は、いちの袋へ、にの物は、にの袋へ、さんの物は、さんの袋にしまってください」と、子どもに伝える。
- 具体物としては、「に」には「チョコレートタイルの2」、「こけしの2」「お皿の2」などがしまいこまれるだろう。
- 子どもが入れ終わったら、正しくしまいこまれているかどうか?を確認してあげることがたいせつだ。
- ここでは、まだ具体物について、その数を言うということは扱っていない。
だから、「チョコレートタイル」や「導入」に使った「物」の範囲で教えることが大切である。
「この袋の中の物の数は、どれも『に』ですね」とまとめる。
同じように、『いち』『さん』についてもまとめる。
- ここでは、推移律の原理を用いている。
Aの物、Bの物、Cの物がある。すると「A、B、Cの物」(3個)は、「3のタイル」に対応する「さん」である。
A、B、Cと質も属性も形象も異なるけれども、どれも『タイル』の「3」に対応していて、同じ「さん」になる。
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A、B、Cという三種に限定した物にかぎらず、多数の種類の物が『タイル』というシェーマ(Schema)と、「さん」という数詞によって「同じ数である」という三者関係が成立する。
- ここでは、いろいろの種類の物の「数」が抽象されて、「数」として「同じ」か「違う」かということが正式にとりあげられたことになる。
- 「ゾウの3」も「リスの3」も「スズメの3」も「数としては同じ3だ」ということがはっきりする。
- ここから、「現実の中」に参加することが可能である。
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古い絵本のページの中から適当な絵を選び出す。
「さんのものを丸でかこんでください」などと指示する。
- このとき、すぐに出来ない子どもへは『タイル』に対応させる。
いちど『タイル』に戻してから「さん」はどれか?と、因果づけをおこなわせるのである。
- 「推移律」と「類別」の学習は、これまで学習した「さん」(3)までの数の段階にかぎっておこなうというものではない。「数が多い」方が「推移律」の効果がある。
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エクササイズ・Ⅲ
「自動車工場」
(子どもに「よん」の数の二者関係を教える学習のカリキュラム) |
- 厚紙の小箱(せっけん箱)に穴をあけて、「わり箸(はし)」を軸として、4枚の「円」を車輪に見たてた「4輪自動車」を用意する。
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「自動車を直す工場ですよ。車輪が悪くなったのでとりかえましょう」と、話す。
これが、具体的な場面設定である。
- 車と、車輪を別々に離してならべる。(車輪は、4つをサイコロの目のような位置に置く。車体は、車輪から離しておく)。「この車輪の数は、よんです」と言う。
これが、「よん」(4)という数詞を初めて与える「与え方」である。
- 「では、車輪のかわりに、タイルを置いてください」と指示する。「一対一対応」によって『タイル』を「車輪」と置きかえる。
「このタイルの数は何ですか?」
この問いには、「よん」という答えがすぐに出てくる。
- 「では、このタイルを動かしてみましょう。よく見ていてくださいね」と言って、タイルの並べ方をさまざまに変化させる。
そして、さまざまに並べた形の変化したタイルの「4」(よん)のグループの一つ、一つを指して「これはいくつですか?」「これもよんですね」と確かめていく。これは「二者関係」のうち「タイルのシェーマ」イコール「数詞」(よんの数詞)を学習していることになる。
この「タイル」の並べ方の終点は「棒タイル」(一直線に並べた4のタイル)である。
- 次は、「数詞イコールタイル(シェーマ)」の学習をおこなう。
「よんと言ったら、よんの数だけ、タイルを並べてください」。
子どもには、バラタイルを並べて完全な「4」のタイルをあらわさせる。
- また、バラタイルの中に「2」「3」「4」の「棒タイル」をまじえたものを与える。
「この中からよんをさがしてください」と指示して「弁別」させる。
- 「タイル」で「4」をつくるときは「タイル」の並べ方はいろいろな形であってもよい。しかし、最終的には「4の棒タイル」を「4」の意味のイメージとして定着させる。
「それでもよいけれども、一列にちゃんと並べてください」と指示する。
- 「数」(かず)を扱うときは「1」から「3」までを区別する。「4」を一段階高いものとして扱う。これは「3までの数」は、いちいち数えることをしなくても直観で判断できる数(かず)の量である。
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「4」以上の数となると、直観では判断できない。直観か、数えるしかない、という限界点にあるのが「4」である。
- ところで、「4」のタイルを横一列に並べると分かりづらいが、「サイコロの目」のような位置に並べると非常に分かりやすい。
「形状」によって認識の速度が違うということだ。
だから、並べ方の形状は、四角形からしだいに一直線の「棒状」に移行していくということをおこなうことが大切である。これは「保存の原理」という。形をどのように動かしても、数そのものは変わらない、という本質のことだ。
- シェーマとしていちばんよい形は、「棒タイル」である。この「棒タイル」と「数詞」とをむすびつける。
- なぜ「棒タイル」がいちばんいいのか?というと、数が大きくなり、また、「十進法」に合わせるためには「サイコロの目」の形(四角形)では困るからだ。「棒状」は「上下」に伸びるという利点がある。
- この「よん」(4)をうまくのり越えることは、数の学習では大きな山を一つ乗り越えたことになる。
- 「4」を「数詞」であらわすとき、「よん」のほかに「し」もある。ふつう「し」という言い方がよいとされている。しかしよく考えてみると、「40」(しじゅう)はまだしも「400」(しひゃく)、「4000」(しせん)とは使わない。「し」よりも「よん」の方が使いみちが多い。
その上、「7」(しち)との誤りも避けられる。そこで、初めは「よん」という言い方に統一する、そして後で必要ならば「し」という言い方も入れる、としたらどうだろうか。
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解説:「物の動きのパターンと方向(ベクトル)」が「意味」の原型です |
ここまでの遠山啓(ひらく)の「水道方式」による「数」(かず)の指導でいわれていることは、「タイル」や「物」を「動かす」ということです。「タイル」と「実物」をむすびつける、「一対一の対応」、「タイル」それじたいをさまざまな形に動かす(サイコロの目の形状から棒タイルの形に一直線に並べる。数の保存の原理)、「遠くの位置にある実物を、タイルの位置まで移動させる」(推移律)、といったように、「動きの方向」を「共通の動き方のパターン」に固定化させています。
(棒タイルの形状のことです)。
この「動きのパターン」を「シェーマ」(映像ふうのイメージ)として記憶する、というのが『タイル』です。この『タイル』は、「量としての数」という『意味』になります。『意味』とは、「ゾウの3」も「スズメの3」も「アヒルの3」も、いずれも同じ「3」(さん)である、と判断するときの「行動の基準」のことです。「現実の中のどんな実物」にも対応できて、因果律や推移律、「数の保存の原理」によって「対応」という行動を可能にします。
遠山啓(ひらく)は、この「タイル」という「抽象としての数の中の量(りょう)」が分からなければ、「数え主義」(数の言葉の暗記主義)となって、「現実の中の数の理解」ができず、「行動が止まる」と指摘しています。
「タイル」は、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」の「Y経路」(パターン認知。物の動き方のパターン。物の動いた結果のパターンなどの認知をおこなう)の働きがつかさどっています。
一方、「数え主義」(数の数詞の暗記)は、「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」の「X経路」がになっています。X経路は「自分の行動はすでに終わっている」というメタ言語による思考のパターンを原型にしています。
したがって、「タイル」に相当する「言葉の意味」(原義)を分かっている人から「なになにをせよ」と指示されると、その指示の言葉を「意味」として行動するしかありません。この指示する人が、もし、「バブルはたいへんいいことだ」と伝えるとすると、「バブル性の商品」を好んで、喜んで取り込み、信用の収縮とともに、現実の中で迷走し、漂流を余儀なくされることになるのです。 |
次に、遠山啓(ひらく)の「水道方式」の「タイル」を「言葉の意味」としてとらえて(推移律の考え方によります)、「言葉の能力」をはぐくむエクササイズをご紹介します。
エクササイズ・Ⅳ |
■事例・1
- 「雨夜の品定め」(あまよのしなさだめ)(ことわざ。故事。「概念」。数の数詞にあたる)。
- 意味(『タイル』に相当する)。
恋愛や結婚の対象としての女性観、女性評のことをいう。
紫式部の『源氏物語』の中の「帚木(ははきぎの巻)」に出てくる。光源氏が、ある雨の夜、宿直の退屈さをまぎらわすために、訪ねてきた「頭中将」(とうのちゅうじょう)、「左馬頭」(さまのかみ)、「藤式部丞」(とうしきぶのじょう)らと、ひまにまかせて女性論、体験談に花を咲かせた、とある。
このときの「雨夜の品定め」(あまよのしなさだめ)で、光源氏は、「夕顔」(ゆうがお)の存在を知った、と書かれている。
設問
「雨夜の品定め」の用例として適切なものはどれですか?正しいものを選んでください。
- 雪が降っている日。高校生の男の友人3人と、クラスの中の女性たちについて話をした。3人とも、好きな女の子のタイプについて日頃の気持ちを語った。
- 雨が降る日の日曜日。会社の男性ら3人で、好きな女性の話をした。おもに山田五郎さんが、自分の女性の好みを語った。
- 雨が降っている夜。
友人の川中三郎君から電話がかかってきた。どうしても好きな女性がいて、思いが昂じて眠れないと言う。
正解: 1
事例・2
- 「あばたもえくぼ」(ことわざ、故事)(概念)。(数の数詞にあたる)。
- 意味(『タイル』に相当する)
あばたもえくぼに見えるほど、欠点までもが好ましく見える心の状態のこと。当事者以外の人間には、はなはだ滑稽(こっけい)であり、ちょっと腹立たしい光景を見聞きしたときに、少し、批難の気持ちをもって使われる。江戸時代に生まれた言葉である。
昔は、天然痘(てんねんとう)という病気が猛威をふるった。
「はしか命さだめ、疱瘡(ほうそう。天然痘)は器量さだめ」と言われた。この病気にかかると容姿の絶対ピンチになった。それでも、世の中には、そんな「あばた」も「えくぼ」に見てくれる人もいる、という恋愛感情の奇妙さが語られた。
設問
「あばたもえくぼ」の用例として適切なものはどれですか?
- 山田三郎さんは、猫が好きだ。三匹も飼っている。しかし、ある日、犬も飼いはじめた。山田さんの好みは「あばたもえくぼ」だ。
- 山口順三郎さんは、年をとった女性が好きだ。おばあちゃん子だからだという。
山口さんは、恋人探しに「養老型の老人ホーム」に通っている。山口さんの女性の好みは「あばたもえくぼ」だ。
- 山川喜三郎さんは、映画を愛好している。とくに『ローマの休日』の「オードリー・ヘップバーン」のファンだ。
最近のテレビに、年をとったオードリー・ヘップバーンがインタヴューに答えていた。山川さんは「ますます輝いて美しい」と感動した。山川さんのオードリー愛好ぶりは「あばたもえくぼ」だ。
正解: 2 |
解説 :史上最強の知性の根拠とはこういうものです |
「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」は「Y経路」が支配するメタ言語野です。Y経路は、言葉の「意味」を認知して認識させます。左脳の海馬に記憶させるということです。何を「意味」とするのかというと「物の動きと、動きのパターンというベクトル」です。
「ベクトル」とは「動きの方向の中に量とか、エネルギーの内容がある」ということです。
この「物の動きのパターンのベクトル」が「ことわざ」や「故事」のような「比喩」をつくったといわれています。「物が上に動くとき」は「喜び」「嬉しい」などのように、対象を遠くに見て、言葉の『意味』を生成させたという説明の仕方です。これがそのとおりかどうかは、検証の必要があるところです。しかし、言葉の意味の典型として「故事」「ことわざ」があることはまちがいのないところです。
すると、言葉の「意味」の典型としての「比喩」(ことわざ、故事)を具体的な場面や状況の中の言葉に定着させることは、史上最強の知性の能力の必須の基盤になることは疑う余地はありません。 |