日本人の誰も知らない「子どもが父親を嫌う理由」 |
平成20年7月になって、たてつづけに二つの「父親」に向かって反発した事件が起こりました。
「名古屋バスジャック事件」(7月15日)と「埼玉県川口市・父親刺殺事件」(7月19日)です。前者は、中学2年生の男子による「バスジャック事件」です。後者は、中学3年生の女子による「寝ていた父親を文化包丁で刺殺した事件」です。
この二つの事件のいずれも、誰もが「一体、なぜこのような事件が起きなければならなかったのか?」という不可解な思いを感じています。この問いと疑問に答える答えを話す人もいません。なぜ不可解かといえば、「父親」が嫌いで、反感をもっていたにせよ、「バスをハイジャックする」とか、「父親を殺害する」と、子ども自身が困ることになるのではないか?と思うからです。きっと、後で後悔することになると、事件を起こす前に考えることはなかったのか?という疑問です。
「東京・秋葉原、無差別大量殺人事件」と同じように、原因は何か?理由は何か?動機は何か?などといくら問いかけても、事件の行動と明確にむすびつく因果は明らかになりません。
しかし、それでも「誰でもいいから人を殺す」などの発言からはうかがえない脈絡のはっきりしない行動による事件が次々に起こっています。平成20年7月22日(火よう日)には「東京・八王子駅ビル通り魔事件」も起こっています。容疑者は33歳の男性です。自称・会社員でした。「仕事がうまくいかない。親に相談したが、ちゃんと相談に乗ってくれなかった。むしゃくしゃした。誰でもいいから人を刺したかった」(容疑者の発言)。
注目されなければならないのは、事件を起こした「行動」とこの「行動」を説明する言葉に明確に理解できる合理性を感じることはできないことです。明確な合理性とは、社会的な正当性があるかどうかを別にすると、「お金が欲しかった」、「親から虐待を受けた」、「親どうしのケンカを止めさせようと思った」、などのような理由が語られることをいいます。 |
表現された言葉は『対象言語』です。「行動」を可能にします。 |
表現された言葉の内容が、その人の「行動」にむすびつくようにあらわされた「言葉」を『対象言語』といいます。『対象言語』とは、学校の教科書で説明されているとおりの文章のことです。
いつ、どこで、誰が(何が)、何を、どのように、どうする、という表現のルールのとおりに「表現されている言葉」のことです。「行動」の目的や目標を説明される文章が『対象言語』です。
「行動」とは、必ずしも、手足を動かすことだけではありません。
話すこと、読むこと、書くこと、そして「考えること」も広い意味の「行動」になります。
人間の「行動」は、心や精神か生理的身体のどちらかが永続的に「生きること」のためにおこなわれます。「楽しいこと」か「自分が得すること」のどちらか、もしくは、その両方を手に入れるのが「生きる」ことの内容です。
「誰でもいいから人を殺す」(秋葉原無差別殺人事件)、「親に恥をかかせてやりたい。父親から逃げたい」(名古屋バスジャック事件)、「父親から勉強しろと言われた。うっとおしかった」(埼玉県川口市、父親刺殺事件)のそれぞれの言葉は『対象言語』です。ここには永続的に生きていくための「楽しいこと」や「得すること」をもたらす「行動」はありません。
これらの一連の事件は、言いあらわされている言葉には「行動」を成立させる内容がないと理解することが重要です。 |
誰も治せなくなった「心の病い」 |
これまでの「心の病い」というものは、「治す」とか「回復させる」という言葉でいいあらわされていたように、生きていく現実社会の中での「行動」に明らかな支障や障害があると語られていました。「人の目が気になって、不安がつのる。人の前に立っても何も話すことができない」という相談の事例があります。対人不安という心の病いです。「自分は人からじっと見られている」という妄想が支障や障害の内容です。
このような心の病いは、支障や障害の内容が明確なので、「治す」という対策は容易に立ちます。問題の所在が分かれば、「どうすればいいか」という改善の方法はすぐに分かります。問題の所在さえ分かれば、理論的には、すぐに改善されます。「人の目が気になって、緊張するし、不安がつのって、話すことができません」というように言いあらわされる「心の病い」は、なぜ不安に思うのか?という根拠を明らかにすることができます。ここには「人と自分」という対人関係とは、「距離が無い」というものの考え方があります。なぜかというと、「人と話をしていない」という状況で「人が自分を見ている」というイメージを思い浮べているからです。いつでも、どこでも、つねに「人が自分を見ている」というイメージは、「自分と他者の間には、距離がない意識」にほかなりません。
「他者にたいして、不安や恐怖を感じる人」は、基本的に「距離のない対人意識」を「ものの考え方」として身につけています。「ものの考え方」とは、「自分から人に話しかけて仲良くしない」とか「自分から、親しく声をかけて会話することはしない」といったことです。「だって、嫌われているようだし」「話しかけると、嫌そうにしゃべるから。他の人には優しげにしゃべるのに」というように「自分が考えている理由」が説明されます。これが「ものの考え方」というものです。「距離がない」と考えれば、自然発生的に安心する状態があってあたりまえであるという考え方になります。対策は、「人と人の間には、距離がある」ということの学習から始められます。
「距離がない」と考えることの不合理や危険な事例を説明する必要があります。「距離がある」と考えることの事例として「あいさつ」とか「感謝の表明」をとりあげる必要もあるでしょう。「自分から仲良くする」ための実技に「橋渡し」になるものがあることを学んでもらう必要もあります。
『対象言語』とは、表現された言葉に、「行動すること」の有効性があるか、どうか?を分かるために調べることをいいます。
「行動の目的は?」「行動の目標は?」「行動の根拠は?」というように調べます。 |
悩みではなくなった「心の病気」 |
「誰でもいいから人を殺す」、「父親が叱ったから恥をかかせてやる」、「父親が勉強しろと言うから、夜中に思いついて、刺殺した」などを『対象言語』として調べてみると、「行動」そのものの本質に反していることが分かります。
「行動」の本質とは、「自分に楽しいことがもたらされる」か、「自分にとって得することがもたらされる」かのいずれかのことをいいます。また、「心の病い」による表現としてみると、「人の目が気になる」の事例と比べても分かるように、「不安」や「恐怖」「緊張」といったことが語られているわけでもありません。
「父親が叱った」(名古屋バスジャック事件)というのは「不安」や「恐怖」の言葉ではありません。
少年は、学校で女の子との付き合い方でトラブルを起こしていました。お金をかけて女の子との付き合いを求めたり、関係を維持する、というトラブルです。このことを学校の教師が把握して、「父親」に善処を求めていました。
「父親」は、このことについて「叱った」のです。少年に、もし、「叱られるような事実」が無ければ、不当に感じて「不安」なり「恐怖」の感情をもつことがありえたかもしれません。
「心の病い」の「人の目が気になる」の事例に見るように、「父親」という「他者」への関わり方を改善すると「バスジャック事件」は起こらなかった、というようには対策は立てられません。
「父親が勉強しろと言った。うっとおしく思っていた。夜中に目が覚めて、突然、父親を殺そうと思いついた」(埼玉県川口市・父親刺殺事件)という言葉にも、「不安」や「恐怖」という病気の言葉の妄想はありません。少女は、事件の前日の夜は、「父親」と一緒に夕食用のチキンカレーの具材を買いに出かけています。弟も一緒でした。そして、「父親」と一緒にチキンカレーを作っています。このチキンカレーを、仕事から帰宅した母親も入れて家族4人で食べています。夕食後は、母親、父親、少女の3人でビデオを鑑賞しています。夜、11時ごろ母親が先に寝たので、少女は、「父親」と二人でビデオを鑑賞しています。夜の8時ごろから、12時ごろまでです。「父親」は、かくべつ「勉強しろ」と、「不安」や「恐怖」に感じるほどには言わなかったことが推察される状況です。
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「父親」が攻撃の対象になる脳の働き方のメカニズム |
すると、「父親」と「母親」が「勉強しろと言った」という少女の「言葉」を『対象言語』としてみると、「父親」との関わりを避けたり、逃避することもできないくらいに緊張状態が切迫していたとは考えることはできません。
もし、「父親」が少女へ「勉強しろ」という言葉を言わなかったら「父親刺殺」は起こらなかったのでしょうか。事件の前の日の「父親」と少女らの行動パターンを見ると、「勉強しろ」という言葉とは無関係に事件は起きています。もし、少女の言うとおり、「父親」がつね日頃、厳しく「勉強しろ」と言いつづけていたとすれば、「チキンカレーを一緒に作る」とか「夜8時から12時まで一緒にビデオ鑑賞をする」などのことはなかったはずだからです。
では、この二つの事件を典型として一連の「誰でもいいから人を殺す」(自分の問題と無関係な存在の他者に危害を加える。父親も危害の対象になった)という事件は、「父親」は全く無関係なのでしょうか。
少年と少女が起こした事件では、発言された言葉を『対象言語』として見ると、「父親」は事件の動機や根拠を構成していません。
しかし、『メタ言語』としてみると「脳の働き方」の中に「父親」は介在しているのです。
『メタ言語』というのは、「表現される以前の言葉」のことです。
人間の行動には「言葉」が必要です。この「言葉」とは、「言葉の『意味』」のことをいいます。この「言葉」の『意味』は、「右脳系のブローカー言語野」の「3分の1のゾーン」か「3分の2のゾーン」のいずれかに「イメージ」を表象(ひょうしょう)させます。すると、「話す」「書く」という「左脳系で記憶されている記号系の言葉(概念も)」が無くても、『意味』の言葉の「イメージ」だけが単独で表象(ひょうしょう)される、ということはありえます。
少年と少女の「脳の働き方」の中には、つね日頃、「父親」についての「不安」「緊張」「恐怖」に相当する不安定な『意味』のイメージがありつづけました。
黙っていても、何も言わなくても「右脳系のブローカー言語野」の「3分の1のゾーン」に表象(ひょうしょう)されつづけるイメージがあったのです。なぜ「3分の1のゾーン」かというと「不安」とか「緊張」「恐怖」のカテゴリーに含まれる「負の行動のイメージ」は、つねに「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」に表象(ひょうしょう)されるに決まっているからです。 |
「東京・八王子駅ビル通り魔」の父親と息子の関係 |
平成20年7月22日に「東京・八王子市」で「駅ビル通り魔事件」が起こりました。容疑者は33歳の自称・会社員です。
「誰でもいいから人を刺したかった。誰でもよかった」という発言で、二人の女性が刺されました。一人の女性が死亡、一人の女性は重傷を負っています。
この「33歳の男性」も『メタ言語』として「親(父親)」を引き合いに出しています。
「仕事関係や人間関係でむしゃくしゃしていた。相談したが、親も話を聞いてくれなかった」(容疑者の話)。
これにたいして、「父親」はこんなふうにコメントしています。
「仕事の悩みも知らないし、仕事のことでの相談も受けていない。フリーターみたいな生活をしていた。時々しか家には帰ってこない。四谷かどこかに住んでいる。事件のことはよく分からない。警察に聞いてみないと内容が分からない。本当なら、遺族の方に申し訳ないことをした」(父親・69歳)。
「父親」は、「仕事のことの相談はうけていない。何のことか分からない」と言っています。しかし、容疑者は「親に相談したが聞いてくれない」と話しています。発言を『対象言語』としてみると、大きくくい違っています。すると、この「八王子駅ビル通り魔事件」も、「脳の働き方がつくり出すメタ言語としての父親」が問題になります。
日本経済新聞が求めた「識者の発言」の要旨は、次のとおりです。
「犯人は、社会から疎外感をにおわせている。ゲームやインターネットの仮想現実も孤独感を助長している。再発防止は、幼い頃から社会の構成員としての自覚をうながすよう教育していくしかない」(小宮信夫・立正大学教授、犯罪社会学)。
「人生がうまくいかないと思いこみ、その矛先(ほこさき)を社会に向けて爆発させるのは、精神的に幼すぎる」(確井真史教授・新潟青陵大学)
ここでは、容疑者は「社会にたいして理不尽な行動を起こしている」とのべられています。「父親」は、子どもにとって「社会性の世界」を象徴します。すると、「名古屋バスジャック事件」の少年も、「埼玉県川口市・父親刺殺事件」の少女も、「社会への不適合」という動機があって、その「社会の象徴である父親」に理不尽な行動を起こしたことになるのでしょうか。このことを、根拠ある納得のいく説明であるか、どうか?を確かめる必要があります。 |
「愛着」という母親と父親の「乳児」への関わり方 |
分かりやすいデータに『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(無藤隆・講談社新書)の中に「愛着」の説明があります。この無藤隆の『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』は、『カウンセラー養成ゼミ』で、「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」の解析と解明のためのデータとして、論理実証のための基礎データにしています。『カウンセラー養成ゼミ』の受講生の皆さまには、なじみの文献です。 |
『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』
(無藤隆・講談社現代新書) |
- 乳児期に成立するもっとも重要な対人関係のあり方が「愛着」である。
「愛着」とは、個人と個人の間の親密で情緒的な絆(きずな)を元にして成立する対人関係のことだ。暖かい情緒的なむすびつきのことだ。これが、成長してからの親密な人間関係の「核」にある。
- 人間は、生涯にわたって親密な人間関係を必要としている。その始まりが乳児期にある。
この乳児期につくられたものが、その後、発達していく情緒的な対人関係の大切な基礎を形成する。
- 「親子関係」「家族関係」にあるのが「愛着」である。
また親しくなっていくことは「愛着」を形成していくことだ。
- 「愛着」という関係概念を提唱して、発展させたのは「ボールビー」(イギリスの精神科医)である。
ボールビーは、こうのべる。
「親と子の間の関係は、一つのシステムを形成している。このシステムの内(うち)では、パートナーが、互いに近くにいることを維持し、必要に応じて接近する」。
「このシステムが生涯にわたって効果的に働くためには、それぞれのパートナーが、内的に、この愛着関係での自己や他者、また、相互作用のパターンを自分のものとして、そのモデルを形成することが必要となる」。
- 乳児は、親密で情緒的な関係を形成した対象にたいして、それへの接近を維持しようとする。
「母親の側」に居たがる。
必ずしも、母親がミルクを与えてくれるからというだけではなく、情緒的な意味での安心を求めるからだ。
- 乳児は、「愛着」の対象にたいして接近する。
この接近を維持することで「安心」を確保して、その対象を安全基地として、まわりへの「探索活動」をおこなう。
- 乳児は、歩けるようになると、時に母親から離れて、まわりを探索する。
この中に恐れ、不安がもたらされると、また、愛着の対象への接近と接触を求めるようになる。しかし、たえず母親の様子をチェックし、定期的に母親のもとへ戻ってきてはまた探索におもむくのである。
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人間は、人間をとおして学習し、成長する |
■ここでは、「愛着」ということが考え方の基準になります。ここで乳児は、「愛着」をとおして何をおこなうのか?が問題になります。
「乳児」は、「行動」し、「言葉」を学習して、記憶するのです。「言葉」は、「母親」による「共同指示」とこの「共同指示」の一環として「喜びの表情」を見て、「言葉」の『意味』を学習し、憶えるのです。
すると、ここで「父親」は、どういう存在か?が問題になります。「愛着」の第一義の対象は「母親」です。「父親」は、「愛着のパートナー」ではないということではありません。原則として、「母親」と同じ「家の中」という空間の中で、「乳児」とともに生活しています。この限りでは、「父親」は、「第二義的な愛着」の対象です。しかし、「第一義の愛着の対象の母親」によって、「行動」と「言葉」そして「言葉」の『意味』を学習し、記憶します。ここでは、「父親」は、「探索の対象」です。「父親」は、探索の対象としては「家の外」に出ていき、再び、家の中に帰ってくる存在です。 |
「父親」は「愛着」と「探索の対象」の二重性の意味をもつ |
「乳児」は、0歳、1歳、2歳、3歳、というように年齢ごとに成長して発達します。生理的身体の成長とともに「行動」の範囲が広がります。「探索の対象」としての学習の内容の「言葉」とその言葉の「意味」も高くなり、広がります。
このことは「父親」にもあてはまります。「父親」は、「第二義的な愛着の対象」です。
「母親」が「第一義の愛着のパートナー」であるときの「父親」は、原則として家の中ではなくて、「家の外」(社会性の世界)にいます。
この「社会性の世界」に、母親の「共同指示」と「喜びの表情」は、届きません。子どもが、公園に行き、幼稚園に行き、やがて学校に行くようになるとき、この子どもの「行動」に「同調」と「同期」という「愛着」のシステムを持ちこむことは不可能です。 |
子どもにとって「愛着」が成長と社会化の土台になる |
3歳児のことを考えてみましょう。
「3歳児」になると、子どもは、母親から離れて、公園に行き、ひとりで遊んで帰ってくるという行動の能力を身につけます。
また、他の子どもと「平行遊び」という、別の子どもの遊びを見て、自分も同じように遊ぶという「社会性の能力」を身につけます。これが「ピアジェ」もいう「年齢べつの発達段階」の内容です。
すると、「子ども」が「家の外」に一人で出かけていき、探索し、帰ってきて安心を得るという「愛着」は、どのように享受されるものでしょうか。少なくとも、公園とか近所といった家の近くや幼稚園といった小集団までは、「母親」がカバーできるでしょう。
「小学3年生」までは「母親」による「愛着」が子どもの安心を支えます。しかし、子どもが「小学4年生」になると、「自我」の形成といって、「性的な機能と能力」をベースにした「自立」が始まります。「母親」による「愛着」は不要になるのです。
「自我」とは、自分の気持ちは、自分で安心させたい、自分の身体は、自分の思うとおりに動かしたい、という欲求と意識のことです。すると、子どもの「自我」の完成と成熟に向けての「愛着」が必要になるということです。 |
「父親」は、「母親」から「愛着」を引き継ぐ |
「父親」がこの「愛着」を「母親」から引き継ぐのです。
「父親」とは、どういう存在でしょうか。「母親」とは違って、「空間認知の能力」を「視床下部」の特性にしています。「視床下部」の「背内側核」がになっています。
女性は、「視床下部の視索前野」で「人間関係」と「言葉」の能力をになっていることはすでにご存知のとおりです。
「父親」である「男性」が「愛着」のパートナーであるときは、「母親」と同じように「共同指示と、喜びの表情」を子どもに向ける必要があるでしょう。それは「愛着の行動パターン」の「同調」と「同期」によっておこなわれます。母親の「同調」と「同期」は、実際に、子どもの行動に合わせて自分も動くことでした。「同調」とは、一緒になって喜んだり、遊びを楽しむことです。気持ちを子どもと同じにすることです。「同期」とは、「子ども」の動きと同じ場面、同じ状況に合わせて動くことでした。この「同調」と「同期」のリズムの波長が合うことが「安定した愛着」です。ボールビーは、この「安定した愛着」を憶えている子どもは、大人になっても、他者と親密な関係をつくれる、と証言しています。大人になってからの「愛着」の影響を調べたのがアメリカのエインズワースです。
「不安定な愛着の体験をもつ子ども」は、成人してからも、他者と情緒的に親密な関係をつくれないことを追跡調査しています。
すると「父親」は、この「同調」と「同期」をどのように子どもに対して「愛着」としてあらわすのか?が問題になるでしょう。日本人の「明治以前」の対人意識は、「遠くの位置」から子どもの社会的な成長を喜ぶ、というものでした。 |
「父親」の最も正しい「子ども」との関わり方のモデルとはこういうものです |
これと全く同じことがおこなわれる必要があるのです。次のようにです。
「子どもが自分の体験を話す」。
すると「父親」は、あたかも自分もその体験の場面にいて、同じ状況に立っているかのような「空間認知」を言葉で言いあらわす必要があります。これが「同期」です。
「子どもが自分の体験を意味として話す」。(嬉しかった、おもしろかった、こわかった、辛かった、楽しかったなどが『意味』です)。
これを聞いて「父親」は、その「喜び」とか「楽しさ」について共感して、そのような意味を摂取できた能力を評価する、という話し方をする。これが「同調」です。
子どもは、「小学4年生」の「自我」の形成期から、「中学の3年生」の「自我の完成期」まで、「父親」のこのような「愛着」と、「母親」が「愛着」として語る「同期」と「同調」の対象の言葉を理解して、これを『意味』として記憶します。これが「父親」の本質です。 |
「名古屋バスジャック事件」の少年の「父親」攻撃の真相 |
すると、「名古屋バスジャック事件」の少年の「父親」は、「少年の女の子との交際の仕方」について「叱った」ということなので、「学校に行く」という「行動」の「同期」が否定されました。「叱った」ことは、「同調」もなかったので「行動」を「止めよ」という関与になるのです。すると社会性の世界から、決定的な孤立を言い渡されたに等しく感じるでしょう。心臓の心拍の低下を感じ、無呼吸症を意識したとも考えられます。少年は、女の子との交際をお金でつくり、お金で維持しようとしていました。
なにがなんでも「性の快感」という美化の妄想をイメージして、かろうじて学校に行き、勉強の言葉を憶えようとしていたのです。これが「叱る」という父親の言葉で、「父親」から遮断されたと了解しました。「安心する」という唯一の拠り所がなくなったので、社会性を象徴する「父親」に打撃を与えてバッド・イメージによる快感の回復を図ろうと意図したのです。 |
「埼玉県川口市・父親刺殺」の少女の「父親殺し」の真相 |
「埼玉県川口市・父親刺殺事件」の女子の「父親」は、「仲良くする父親のモデル」です。子どもとよくしゃべり、冗談をいい、一緒に遊ぶという「父親」のモデルになるでしょう。このような「父親」は、なぜ、子どもに嫌悪されるのでしょうか。「愛着」の「同期」がなく、「同調」も無いからです。「同期がない」とは、「学校に行っているのに、しかし行っていない」という離人症におちいることになります。かぎりなく、内向化するのです。内向化とは、意識が外に向かうのではなく、自分の過去とか、「行動が止まったときに線状体から表象する不安のイメージ」をじっと見つめるということです。「同調がない」とは、学校の教科書に書かれている「言葉」の『意味』を全く記憶できない、ということになるのです。
少女は、事件の前の日は、「期末テストの補習と、追試の日」でした。社会性の世界の実体の学校から、「あなたの勉強の取り組み方は、全て、無効である」と通告されたという意味をもつでしょう。これが「父親刺殺」の「行動」の『メタ言語』の内容です。
「父親」の話す「同期」は、「学校に行くこと」のメタファーです。「教科書」(成人してからは、仕事の言葉)の『意味』を憶えることは、「父親」の話す「同調」の言葉によって可能になります。少女には、この二つが初めから左脳系の「脳の働き方」の中に記カルトコミック」(猟奇殺人漫画『ひぐらしのなく頃に』)は、「仲がいい父と娘」「よく遊んでくれる父親の娘」「よく冗談を言って笑わせる父親の子ども」の全てに共通する内向化の中の「教科書の言葉の意味を憶えられない」ことを動機にした「離人症」の中の自分か、「社会の中の幸せそうな他者」の破壊をバッド・イメージにもとづいて快感をもたらすドーパミン分泌の「メタファー」であったのです。
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